今年は、四月に入りましても天候不順が続き晴れた日が少なかったのですが、間隙を縫ってこの日は晴れてくれました
ので、仕事の合間に出かけてきました。
四条川端から北上し桜並木を眺めながら、葵橋西詰めから加茂街道を上がって行きましたが、鴨川畔はずっと桜が続い
ており春を満喫した気分になりました。
上二枚の写真は、北大路から北山通りの間の植物園沿いの紅しだれです。鴨川畔はほとんどが染井吉野ですが、この
区間だけは紅枝垂れが植えられており、桜祭りが行われておりました。
世界文化遺産に指定されております上賀茂神社は、賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)は、京都市北区にある
神社で「上賀茂神社(かみがもじんじゃ)」の通称で呼ばれ親しまれており、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに古代の賀
茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称されており、5月15日の賀茂神社両社の祭事である葵祭で有
名でもあります。
賀茂氏の祖神である賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を祀る。「別雷」は「若雷」の意味で、若々しい力に満ちた
雷(神鳴り)の神という意味だそうです。
斎王桜の東側(写真右手)では、皆さん思い思いにシートを敷きお花見を楽しんでおられました。
斎王桜
風流桜 葵祭りのときに「風流傘・花傘」が、この桜を目印に並べられるそうです。 二の鳥居の右手にあります。
神代の昔、本社の北北西にある、秀峰神山(こうやま)に御降臨になり、天武天皇の御代(678)、現在の社殿の基が
造営され、本殿御鎮座以後も広く庶民の信仰を集め、皇室の御崇敬は歴代にわたり、行幸啓は枚挙にいとまなく、国家
の重大時には必ず奉幣、御祈願がありました。 嵯峨天皇は御杖代(みつえしろ)として皇女有智子(うちこ)内親王を斎
王(さいおう)と定め、その制度は以来三十五代、約四百年続きました。
正面、細殿と右手橋殿
立砂 - 細殿前の円錐状の二つの砂の山は御神体である神山を模したものであり立砂(た
てずな)といいます。鬼門にまく清めの砂の起源とされているものです。
楼門
本殿
葵祭りの起源 賀茂祭は祭儀に関わる全ての人たち、また社殿の御簾・牛車に至るまで二葉葵を桂の小枝に挿し飾る
ことから、広く一般には「葵祭」として知られる祭です。 その起源は太古別雷神(わけいかづちのかみ)が現社殿北北西
にある神山(こうやま)に御降臨された際、御神託により奥山の賢木(さかき)を取り阿礼(あれ)に立て、種々の綵色(い
ろあや)を飾り、走馬を行い、葵楓(あおいかつら)の蔓(かずら)を装って祭を行ったのが当神社の祭祀の始めであります。
時を経て6世紀欽明天皇の御代、日本国中が風水害に見舞われ国民の窮状が甚だしかったため、勅命により卜部伊吉
若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ、賀茂大神の祟りであると奏したことにより、4月吉日を選び馬に鈴
を懸け、人は猪頭(いのがしら)をかむり駆馳(くち)して盛大に祭りを行わせた事が賀茂祭の起こりであると『賀茂縁起』に
記されています。
上賀茂神社をあとにし、徒歩で5分の距離にある太田神社をのぞいて来ました。こちらの神社は、杜若が有名で5月には、
2万本ともいわれる杜若が咲き乱れます。
帰り道も加茂街道をはしりました。 植物園横
比叡山山頂です。
大文字山を借景に染井吉野が、満開状態です。
北大路と葵橋の間に架かる出雲路橋から、上流(北大路方面)です。
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