FORZA世界史inBLOG

世界史の復習をサポートするブログです

イオニア哲学

2020年05月09日 | 高2用 授業内容をもう一度

自然は古代の人々にとって不可解で恐ろしいものでした。自然を【神】として祭ることで、その恐ろしさを収めようとしたことでしょう。神すなわち宗教で自然を理解使用としたわけです。 
 【前6】世紀の【イオニア】地方【ミレトス】の【タレス】は、自然は元をただせば何からできているのかを「思索」しました。彼はすべてのものの根源を「【水】」としました。彼に続いて多くの人々が「万物の根源は何か」と思索しています。この自然に関する思索を「【自然哲学】」とよび、最終的には【デモクリトス】は「万物の根源は【アトム】(原子)」であると考えています。なお、タレスは前585年の【日食】を予言しています。 
 【ソクラテス】・【プラトン】・【アリストテレス】に代表される「ギリシア哲学」はイオニアの「自然哲学」とは扱ったテーマが違います。先の3人は「良く生きるとはどのような生き方か」「いかに生きるべきか」を問い続けた人間で、まさに哲学的学問領域を切り開いた先駆者といえます。一方、自然に対する問いかけは「科学」が担うようになります。エジプトの【アレクサンドリア】には【ムセイオン】という研究所が作られ、【地球の円周の長さ】や【地動説】の発見が行われています。


ギリシア哲学を概観する

2020年05月09日 | 高2用 授業内容をもう一度

前6世紀初、小アジアのイオニアのミレトスを中心に、自然の本質を合理的に探ろうとする自然哲学が成立した。前585の日食を予言したとされるタレスや、「万物は流転する」の言葉を残したヘラクレイトスらがイオニア自然哲学を代表する。一方、アテネにおいて民主政治が確立すると、ポリス市民たちは政治や軍事に活動の中心を求め、財産や生命以上に名声や名誉を尊重した。ポリスでは政治参加の権利や政治的発言力をめぐる競争が公然と展開され、市民として協力し合う一方で、激しい名誉獲得を追及する行動様式が支配的であった。このような「協力」と「競争」とのバランスが崩れていった時代がペロポネソス戦争の時期である。名誉獲得のための弁論・修辞を教える職業教師が出現し、その代表者であるプロタゴラスは絶対的な真理の実在を否定した。このような潮流に対して一線を画したのが、西欧政治思想の源流と位置づけられるソクラテスである。彼は著作を残していないが、その弟子プラトンの著作から彼の思想を知ることができる。ソクラテスは絶対的真理の存在を説いてアテネの青年を導いたとされる。ソクラテスは従来のポリス市民が行動規範としていた名誉や名声を追求する考え方を改めるよう求め、絶対的真理である「魂」を追究することで、荒廃したポリスを立て直すことを目指した。しかし、このことは現実のポリス社会との軋轢を生み、市民に誤解されて刑死を余儀なくされた。プラトンはイデア論・理想国家論を説き、古代最大の総合的哲学者と位置づけられるその弟子アリストテレスは、その著『政治学』で最善のポリスを構想している。


ペロポネソス戦争と衆愚政治に墜ちたアテネの政治

2020年05月09日 | 高2用 授業内容をもう一度

 【ペリクレス】の時代、【デロス同盟】はアテネの帝国支配のように利用されていました。供出金の流用などです。これ反発するポリスは存在し、【スパルタ】を中心にアテネのデロス同盟のポリスと対峙していきます。反アテネという目的を持ったそれらのポリスはスパルタを中心に【ペロポネソス同盟】を結成しました。アケメネス朝ペルシアがこの混乱を見逃さず、ギリシア世界のポリス間の対立をさらにけしたてました。
 アテネとスパルタの戦争は、ギリシア世界を指導するポリスがどちらなのかという戦争でもあります。いわゆる【覇権】争いです。この【ペロポネソス戦争】は【前431年~前404】年まで、【約30】年間も続いた戦争です。この間、アテネの衰弱はひどく、【ペストの流行】で【ペリクレス】もあっさり病死しました。抽選で選出される政治家ではこのような混乱した時代を乗り越えられなかったともいえます。このような状況を【衆愚政治】(【デマゴーゴス】)といいます。
 アテネでは【ソフィスト】と呼ばれる教師が弁論の技術を教えていたものの、実際の政治には効果がなかったようです。これに対して否定的だったのが、「【無知の知】」で知られる哲学者【ソクラテス】でした。彼はソフィストとは違って「良く生きるとは?」という疑問を若者にぶつけてその答えを見出そうとしたのです。このような方法を「【産婆術】」といいます。


無知の知

2020年05月09日 | 高2用 授業内容をもう一度

人間はいかに生きるべきか?ソクラテスはそれまでの哲学者とは違って、この問いに対する答えを求めていました。ソクラテスは「無知の知」という言葉で知られています。しかし、この言葉の前に「知徳合一」という言葉が重要になります。すなわち、「知る」ことと「よく生きる」こととは結びつくという言葉です。自分が知らないことを知っていることの大切さは、無知の知の言葉が示しているとおりですが、さらにこのことは、知徳合一とあわせて考えると面白くなります。「知」への欲求が「よく生きる」ことにつながっている。「知的好奇心」が、「よく生きる」ことであり、「いかに生きるか」という問いに対する答えでもある。ソクラテスはそのように考えていたのではないでしょうか。したがって、よく生きることを追い求めるものにとって、「知的好奇心」はとどまることはなく、常に追い求められる「知」がある以上、「無知の知」という言葉が彼の思想を象徴するわけです。 では「知」に対する欲求を持つにはどのようにすればいいのでしょう。まさに、このような「欲求」が存在することが大切なのでしょう。


ソクラテスの「問い」

2020年05月09日 | 高2用 授業内容をもう一度

ギリシアの人々は「抽象的に理解する」ことが苦手でしたから、「愛」とか「美」とかといった抽象的な事柄すべてを「神」という「具体的なもの」に置き換えて理解していたのです。ギリシアの神々が大勢いることは当然だったわけです。 この具体と抽象の違いに気づいていたのがソクラテスでした。ソクラテスは具体と抽象が違うこと、抽象的な概念である「善」すなわち「良く生きる」ことを人々に問いかけました。しかしそのことは、ソクラテスが「具体である神」を否定している、という見方を生み出しました。その結果彼は毒杯を飲まされたのです。そこでプラトンは「抽象」をイデアと呼び変えて、ソクラテスの業績を受け継いだわけです。


オスマン帝国と神聖ローマ帝国との攻防 

2020年05月04日 | 高3用 授業内容をもう一度


ポイント1
16世紀神聖ローマ帝国では帝国の統一を支持する皇帝派諸侯と反対する反皇帝派諸侯(ザクセン公やプロイセン公など)で対立していた。
その中、宗教改革が起こり、1525年プロイセン公は皇帝が禁止するルター派に改宗して反皇帝派の立場を鮮明にした。

ポイント2
モハチの戦いでハンガリー王国が敗れると、ウィーンに異教徒の脅威が迫った。
すると、カール5世はルター派を支持する反皇帝派諸侯の協力を得るためにルター派を容認した。(第1回シュパイエル国会)
スレイマン1世は1529年ウィーン包囲を行ったが冬の到来で退却した。異教徒の脅威は去った。
すると、カール5世はルター派を否定した。(第2回シュパイエル国会)
これに対しルター派諸侯は抗議した。(1530年)

2000年一橋大学本試第3問 16-18世紀前半の銀経済

2020年05月03日 | 論述問題
次の文章を読んで,問いに答えなさい。
 15世紀末に始まるヨーロッパ諸国のアジアヘの進出は,主役とその形態を変化させながら,今日に及んでいる。初期の段階について考えると,彼らのアジア進出の目的は,当時のヨーロッパにおいて珍重されたアジアの物産を入手することにあった。この時期,彼らはアジアの物産を買い,それをヨーロッパ市場で売りさばいて利益をあげたばかりではなく,アジア内の貿易にも参加して,大きな利益を得ていた。

問 下線部分をよく読んで,16世紀から18世紀中頃にかけて,ヨーロッパ諸国はアジアの物産を買い付けるための貨幣をどのように得ていたのかを,金銀の産地や経由地を明示しつつ,説明しなさい。(65字以内)



【考え方】
時期は16-18世紀半。重商主義を展開し覇権国家となったのは16世紀前半ポルトガル、16世紀後半スペイン、17世紀オランダ、18世紀前半イギリス・フランス。銀の産地はスペイン領ポトシ銀山やサカテカス銀山と日本の岩見銀山。経由地はスペイン領マニラ市、ポルトガル領ケープタウン・マラッカ・マカオ、オランダ領ケープタウン・マラッカ・台湾・平戸。
【解答すべきポイント】
各国が銀をどのように獲得したか、について解答する。スペインはインディオの強制労働による銀山経営。ポルトガルは南シナ海の中継貿易に参入して香辛料を獲得しヨーロッパでの売却益。オランダは東シナ海と南シナ海の中継貿易と対日貿易の独占。英仏は毛織物工業を保護育成する貿易差額主義により貿易の黒字化。

一橋大学2016 第2問問題 ナントの勅令廃止の影響

2020年05月02日 | 論述問題
第2問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 ベルリンにはたくさんの広場がありますが、その中で「最も美しい広場」称されるのは、コンツェルトハウスを中央に、ドイツ大聖堂とフランス大聖堂を左右に配した「ジャンダルメン広場」です。この2つの聖堂はともにプロテスタントの教会ですが、フランス大聖堂は、その名の通り、ベルリンに定住した約6千人のユグノーのために特別に建てられたものです。この聖堂の建設は1701年に始まり、1705年に塔を除く部分が完成しました。壮麗な塔が追加されて現在の姿になったのは1785年のことです。
 歴史的事件の舞台として有名な広場もあります。例えば、「ベーベル広場」は、1933年にナチスによって「非ドイツ的」とされた書物の焚書が行われた場所で、現在はこの反省から「本を焼く者はやがて人をも焼く」というハイネの警句を記したモニュメントが設置されています。この広場に面する聖へートヴィヒ聖堂は、ポーランド系新住民のために建設されたカトリック教会です。建設は1747年に始まり、資金不足や技術的困難を乗り越えて、1773年に一応の完成にこぎつけました。実際にはカトリック教会として建設されましたが、この円形聖堂は、もともとローマのパンテオンを摸して内部に諸宗派の礼拝場所が集うように構想されたものです。この聖堂をデザインしたのは当時の国王自身であり、彼の基本思想を象徴するものと言えるでしょう。

問い 文章中の下線部で述べられている2つの聖堂が建設された理由を比較しながら、これらの聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明しなさい。(400字以内)




【字数配分】
1. ユグノーの教会が建設された理由:100字
2. ポーランド系カトリック教会が建設された理由:100字
3. 宗教的背景:100字
4. 政治的背景:100字

【リード文から考える点】
1. ベルリンとあるので舞台はプロイセン王国。
2. 1701年ころベルリンにユグノーが6000人定住した。
1685年フランスのルイ14世がナントの勅令を廃止。ユグノーは新教国のイングランドやプロイセンに亡命した。
3. ユグノーの教会は資金が潤沢で数年で完成した。
 毛織物工業などで財を成したユグノー。予定説で蓄財を容認されていた。
4. ハイネの警句がなぜこの問題に必要なのか。
 ポーランド系住民がハプスブルク家領であったシュレジエンで差別されていたのだろうと想像される。だからこそ啓蒙専制君主として「国家第1の下僕」を自任するフリードリヒ2世のベルリンに多くのポーランド系住民が移住したのだろうと思われる。 
5. ポーランド系新住民が移住した時期は1747年ころ。
 世界史の入試問題として大きなポイント。高校世界史の知識が必要になる。
1747年から1740-48年オーストリア継承戦争では鉱物資源(鉄鉱石や石炭)が豊富なシュレジエンを巡る戦争を思い出したい。シュレジエンの場所を覚えていると助けになる。次は高校世界史の範囲外の知識だが、もともとシュレジエンはポーランド領でその後ハプスブルク家の支配下に置かれた。またオーストリア継承戦争はシュレジエン戦争ともいう。この戦争中プロイセンがシュレジエンを占領し1748年アーヘンの和約で正式に領有が認められた。おそらく、1740年以降ポーランド系カトリック教徒がベルリンに移住したと思われる。 
6. ポーランド系カトリック教会は資金不足で完成まで25年間も要した。
 西欧の後背地の地位に置かれたプロイセンがユグノーを受け入れて工業化を進めたのに対して、ポーランド王権は弱体であった。さらにポーランドの経済的立場は弱まっていった。
7. 1740年に即位している国王フリードリヒ2世が基本思想に基づいて諸宗派の礼拝場所が集うように構想されたデザインの大聖堂。
 啓蒙専制君主であるフリードリヒ2世の基本姿勢のなかにはヴォルテールがいう信仰の自由が含まれる。

【記述】
字数配分にあるようにそれぞれ100字以内で記述するので何とかなりそう。
1.ユグノーの教会が建設された理由:100字
 ナントの勅令はカルヴァン派ユグノーにも個人の信仰の自由を認めていた。
 1685年ルイ14世がナントの勅令を廃止した。
 ガリカニスムの伝統の下、ルイ14世はカトリックによる宗教の一元化を実現した。

2.ポーランド系カトリック教会が建設された理由:100字
 プロイセン王フリードリヒ2世はマリア=テレジアの皇帝即位に反対して1740年オーストリア継承戦争が開始した。
 ポーランド系住民が多いシュレジエンを巡る戦争である。
 差別されていたポーランド系住民がベルリンに移住した?

3.宗教的背景:100字
 プロイセンは1525年からルター派新教国である。
 フリードリヒ2世はヴォルテールと親交を持ち宗教に寛容な政策をとっていた。
 ウエストファリア条約は異端とされた人々は移住を認めている。
 10世紀以来ポーランドはカトリック国である。

4.政治的背景:100字
 ブルボン朝ルイ14世が絶対王政を確立させた。
 フランスを中心に啓蒙思想が広がっていた。
 フリードリヒ2世は啓蒙専制君主で近代化を図っていた。
 シュレジエンは鉱物資源が豊富でプロイセンにとって近代化に必要であった。
 神聖ローマ皇帝カール6世がプラグマティック・ザンクションを出した。
 フリードリヒ2世はマリア=テレジアの即位に反対してオーストリア継承戦争を起こした。






2013年一橋大学本試第1問(改)東方植民

2020年05月01日 | 論述問題
「ハーメルンの笛吹き」の伝承はドイツの歴史学界では完全なフィクションではないと考えられ、「鼠捕り男」の正体や村から姿を消した子どもたちの行方について、これまで様々な学説が打ち立てられてきた。その中の有力説の一つによれば、中世ドイツの東方植民が伝承の歴史的モチーフになったとされる。

 中世ドイツの東方植民の経緯を、送り出した地域の当時の社会状況を踏まえて述べるとともに、植民を受け入れた地域が近代に至るまでのヨーロッパ世界のなかで果たした経済史的意義について、その地域の社会状況の変化に言及しつつ論じなさい。(400字以内)




【字数配分】
東方植民の経緯:100字  
PUSH要因:100字
経済的意義:100字  
社会状況の変化:100字

【考えるポイント】
東方植民の経緯:シトー修道会「祈り働け」開拓と開墾・第3回十字軍のドイツ騎士団
送り出した地域のpush要因(社会状況):温暖化・純粋荘園の三圃制や農業技術革新・人口増加(西欧の膨張)
東方植民~近代におけるエルベ川以東(オストエルベ)の経済的意義:穀物供給・周辺国の地位(後背地)に置かれ穀物を輸出し工業製品を輸入した
社会状況の変化:グーツヘルシャフト(再販農奴制)・農奴制強化・農奴身分の低下・ユンカーが社会全般を支配する状況・ユンカーが絶対王政を支える存在

2001年一橋大学本試第2問 絶対王政の特徴

2020年05月01日 | 論述問題
2001年 一橋大学本試
【第2問】
17世紀から18世紀におけるヨーロッパは絶対主義あるいは絶対王政の時代と呼ばれる。とりわけルイ14世が統治したフランスは典型的な絶対主義国家とされているが、このような政治体制がどの程度「絶対的」であったのかに注意しながら、その特徴を述べなさい。(400字以内)





【解答のポイント】
1. どの程度「絶対的」
 どの程度「絶対的」を考えることは、絶対王政における国王と特権階級との関係を考えること。絶対王政の国王が「絶対的」な権力を持っているのではなく特権階級との「持ちつ持たれ つ」の関係の上に成り立っている王権であることを説明する。
 すなわち、国王は特権を付与しその特権を守ってあげる代わりに、そのような特権階級が王権を支持し協力的に振舞う(協賛)ことを期待する。ただし特権階級はその特権が維持されている限りにおいて協賛的である。重商主義政策が行き詰まり、チャールズ2世のように「トン税」などを課し、ルイ16世のように重農主義(農地に課税する政策)に転じる動きを見せると特権階級はたちまち協賛的な態度を止め国王に反乱・抵抗する。このような意味において絶対王政の王権は「絶対的」とは言えない。


2. ルイ14世絶対王政の特徴
① 国内に王権を制限する権力が存在しない。:課税承認権をもつ身分制議会が開かれていない。
② 王権を支えるための官僚制と常備軍を持っている。:国内に国王が組織した以外の政治組織や軍事組織が存在しない。
③ 国外からの政治的・宗教的な影響を排除している。:ガリカニスムの伝統によって教皇権から国内の教会が自立しその教会を国王が支配している。
④ 絶対王政の財政は重商主義政策に依存している。:大土地所有者である特権階級の農地に課税しない。そのかわり貿易差額主義を展開し独占的に貿易を行う大商人がその利益を特許料として国家に納める。
⑤ 「主権」が確立している。ただし、絶対王政の主権者は国王で国王主権といえる。:主権が及ぶ範囲が明確にするために「自然国境説」を主張する。
⑥ 近代主権国家だが、近代国民国家のような「国民主権」ではない。まだ「国民」が成立していない「社団国家」としての性格がある。


3. 社団国家とは
 「社団」という言葉は聞きなれないが、「団体」とか「かたまり」といったニュアンスと理解してよい。日本国語大辞典によれば、「社団とは、一定の目的のために組織された団体で、その団体自身が社会上一個の単一体として存在し活動するもの。」とある。

 特権階級はそれぞれ「社団」を形成しておりその「社団」の頂点に君臨している人々である。たとえばキリスト教会は教会組織という「社団」を形成しており大司教・司教がその頂点に位置している。教会という「社団」は信仰という目的のために形成されており、それに参加する末端の人々は村々にいる農民たちである。村々の農民は下部組織を経営する司祭や牧師の教会の礼拝に参加することを通じて「社団」に参加している。また、都市では都市貴族が形成した「社団」があり、その末端には都市下層民がいる。あるいは大土地所有者である貴族は農場という「社団」を形成しそれに属するのは農奴や小作人といった人々である。

 このように社会がいくつもの「社団」に分けられ、「社団」の特権階級がそれを経営する国家を「社団国家」という。絶対王政は「社団」の寄せ集めで、その頂点にいる特権階級が「社団」を経営する上での権限(特権)を国王が認めることで成り立っている。教会が10分の1税を村人に要求するなどといった教会内の経営について国王は関与しない。そのかわり大司教や有力な司教は国王がカトリックを選択あるいは英国教会を設立したらそれに従い国王の「王権神授説」を支える。具体的には異端を摘発して追放する。

 「社団国家」である以上、絶対王政には均質な国民は成立していない。「国民」とは同じような教育(一般に義務教育という)を受け、均質な言葉(共通語・標準語)を持ち、同じ法律や社会的ルールの下で暮らしている人々である。「国民」はこのような環境下で暮らすことで国家への帰属意識を持つことができる。一方、「社団」のよって分断されている絶対王政下では、人々には国家への帰属意識はなく「社団」に帰属しているという意識がある。彼らには自分が「フランス人である」という意識はない。日本の江戸時代の人々が「藩」への帰属意識が強く「日本」への帰属意識がなかったあるいは希薄だったことに似ている。