ワークシート(38)イスラーム史(4)3カリフ時代とセルジューク朝
地方太守(アミール)や有力者たちは、カリフの政治的権威を認めつつも自立化した。9世紀後半、イラン・中央アジアでサーマーン朝が成立し、トゥールーン朝も興った。前者の【 】朝はスンナ派で、中央アジアのサマルカンドを支配しておおいに繁栄していた。
この分裂傾向は、その後も進んだ。909年に北アフリカのチュニジアで成立したシーア派の王朝ファーティマ朝は、アッバース朝スンナ派カリフの権威そのものを認めず、自らカリフを名のり、中カリフ国と呼ばれた。この王朝名となった【 】とは、ムハンマドの娘の名であり、第4代カリフのアリーの妻のことである。ファーティマ朝は【 】年に建国した地である【 】から、さらに969年にはエジプトを征服し、アレクサンドリアにかわる新たな首都カイロを建設している。この新都【 】には、シーア派教学を研究するためのアズハル学院が建設された。しかし、のちになってこの【 】学院は当初の【 】派の学校ではなく、スンナ派教学を教える学校になり、現在に至っている。
また、アッバース朝建設時にイベリア半島に逃れたウマイヤ家の一族は、756年から都をコルドバに置き、後ウマイヤ朝を建てていたが、彼ら【 】家の支配者たちはアミール(太守)の称号を用いていた。しかし、その君主は、909年に成立して【 】を名乗っていた【 】朝に対抗して、929年からアブド=アッラフマーン3世が、【 】(太守)の称号を改めて、【 】を名のったため西カリフ国と呼ばれるようになった。
こうして、イベリア半島には【 】年からウマイヤ家スンナ派の新カリフ【 】によって始まった【 】カリフ国、エジプトには【 】派の【 】カリフ国、イラクにはアッバース家のスンナ派カリフが並立するようになり、イスラーム帝国の分裂が明確となった。
このような分裂の傾向は、アッバース朝の本拠地であったイラクでも顕著になった。とくにシーア派イラン系軍人が建てたブワイフ朝は、946年アッバース家カリフがいる都【 】に入城し、大アミールの称号を用いて、アッバース家カリフから完全に政治的実権を奪った。このころから、イスラーム世界はスンナ派とシーア派が激しく対立する場になっていった。
ブワイフ朝がバグダッドに入城した【 】年から約100年間、スンナ派最大の拠点は【 】派に占領されていた。しかし、1055年にセルジューク朝(セルジューク=トルコ)のトゥグリル=ベクが、【 】を称していたシーア派の【 】朝を追い払い、都【 】入城を果たした。その結果、建国者【 】はアッバース家カリフから、「イスラーム法執行権」を持つスルタンの称号を与えられ、軍事・行政の最高執行権を獲得した。
【 】朝第2代スルタンとなったアルプ=アルスランと第3代【 】のマリク=シャーに使えた宰相ニザーム=アルムルクは、各地にニザーミア学院というスンナ派教学の学校を建てている。また、この【 】はイクター制を完成させた宰相としても知られる。つまり2代目スルタン【 】と3代目スルタン【 】の2人のスルタンの時代に、【 】制によって世襲が認められた封土が分与されたことで、西アジアでも「封建社会」が始まったといえる。各地に建設された【 】学院は【 】派の教えを広める役割を担っていた。
11世紀になると、エジプトでもシーア派のファーティマ朝は滅ぼされ、スンナ派のアイユーブ朝が成立し、サラーフ=アッディーン(サラディン)が全盛期を築いた。しかし、【 】が死ぬと、アイユーブ朝支配下のトルコ系軍人奴隷が反乱を起こしてマムルーク朝を建国した。すなわち、【 】朝・【 】朝・【 】朝の3王朝が、エジプトのカイロを都に繁栄した。
テスト
(1)875年にイラン・中央アジアで建国し、999年まで続いた【 】派の王朝は?
(2)地方太守を【 】、ブワイフ朝が用いた称号は【 】、セルジューク朝が与えられた称号は?
(3)セルジューク朝では西アジアにおける封建社会が成立した。この封土徴税権を分与する制度は?
(4)カイロに建設されたシーア派教学の学校は【 】。各地に建設されたスンナ派教学の学校は?
(5)10世紀初から16世紀まで、エジプトで繁栄した3つのイスラム王朝は?
地方太守(アミール)や有力者たちは、カリフの政治的権威を認めつつも自立化した。9世紀後半、イラン・中央アジアでサーマーン朝が成立し、トゥールーン朝も興った。前者の【 】朝はスンナ派で、中央アジアのサマルカンドを支配しておおいに繁栄していた。
この分裂傾向は、その後も進んだ。909年に北アフリカのチュニジアで成立したシーア派の王朝ファーティマ朝は、アッバース朝スンナ派カリフの権威そのものを認めず、自らカリフを名のり、中カリフ国と呼ばれた。この王朝名となった【 】とは、ムハンマドの娘の名であり、第4代カリフのアリーの妻のことである。ファーティマ朝は【 】年に建国した地である【 】から、さらに969年にはエジプトを征服し、アレクサンドリアにかわる新たな首都カイロを建設している。この新都【 】には、シーア派教学を研究するためのアズハル学院が建設された。しかし、のちになってこの【 】学院は当初の【 】派の学校ではなく、スンナ派教学を教える学校になり、現在に至っている。
また、アッバース朝建設時にイベリア半島に逃れたウマイヤ家の一族は、756年から都をコルドバに置き、後ウマイヤ朝を建てていたが、彼ら【 】家の支配者たちはアミール(太守)の称号を用いていた。しかし、その君主は、909年に成立して【 】を名乗っていた【 】朝に対抗して、929年からアブド=アッラフマーン3世が、【 】(太守)の称号を改めて、【 】を名のったため西カリフ国と呼ばれるようになった。
こうして、イベリア半島には【 】年からウマイヤ家スンナ派の新カリフ【 】によって始まった【 】カリフ国、エジプトには【 】派の【 】カリフ国、イラクにはアッバース家のスンナ派カリフが並立するようになり、イスラーム帝国の分裂が明確となった。
このような分裂の傾向は、アッバース朝の本拠地であったイラクでも顕著になった。とくにシーア派イラン系軍人が建てたブワイフ朝は、946年アッバース家カリフがいる都【 】に入城し、大アミールの称号を用いて、アッバース家カリフから完全に政治的実権を奪った。このころから、イスラーム世界はスンナ派とシーア派が激しく対立する場になっていった。
ブワイフ朝がバグダッドに入城した【 】年から約100年間、スンナ派最大の拠点は【 】派に占領されていた。しかし、1055年にセルジューク朝(セルジューク=トルコ)のトゥグリル=ベクが、【 】を称していたシーア派の【 】朝を追い払い、都【 】入城を果たした。その結果、建国者【 】はアッバース家カリフから、「イスラーム法執行権」を持つスルタンの称号を与えられ、軍事・行政の最高執行権を獲得した。
【 】朝第2代スルタンとなったアルプ=アルスランと第3代【 】のマリク=シャーに使えた宰相ニザーム=アルムルクは、各地にニザーミア学院というスンナ派教学の学校を建てている。また、この【 】はイクター制を完成させた宰相としても知られる。つまり2代目スルタン【 】と3代目スルタン【 】の2人のスルタンの時代に、【 】制によって世襲が認められた封土が分与されたことで、西アジアでも「封建社会」が始まったといえる。各地に建設された【 】学院は【 】派の教えを広める役割を担っていた。
11世紀になると、エジプトでもシーア派のファーティマ朝は滅ぼされ、スンナ派のアイユーブ朝が成立し、サラーフ=アッディーン(サラディン)が全盛期を築いた。しかし、【 】が死ぬと、アイユーブ朝支配下のトルコ系軍人奴隷が反乱を起こしてマムルーク朝を建国した。すなわち、【 】朝・【 】朝・【 】朝の3王朝が、エジプトのカイロを都に繁栄した。
テスト
(1)875年にイラン・中央アジアで建国し、999年まで続いた【 】派の王朝は?
(2)地方太守を【 】、ブワイフ朝が用いた称号は【 】、セルジューク朝が与えられた称号は?
(3)セルジューク朝では西アジアにおける封建社会が成立した。この封土徴税権を分与する制度は?
(4)カイロに建設されたシーア派教学の学校は【 】。各地に建設されたスンナ派教学の学校は?
(5)10世紀初から16世紀まで、エジプトで繁栄した3つのイスラム王朝は?