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03 早稲田大学 社会科学

2006年09月18日 | FORZA世界史 復習編
03 早稲田大学 社会科学

 次の文章を読み,問1~4については,該当するもっとも適切な語を記入し,問5~12については,該当するもっとも適切な解答をそれぞれ一つ選び,その記号をマークせよ。
 (イ)トロヤの英雄アエネアスの末裔により建国されたといわれるローマは,イタリア中部ティベル河畔の小都市国家として出発し,建国以来王政の統治形態をとっていたが,前6世紀末に共和政へと移行したとされる。(A)共和政の初期に,国政を独占していた貴族に対して平民は身分闘争を展開したが,前3世紀前半までに平民の参政権が認められるようになった。この頃までに,ローマは北のエトルリア人,山岳地帯のサムニウム人,中部のラテン人,(B)南部のギリシア系の都市との抗争を勝ち抜いて,降伏した都市や征服の過程で建設した植民市を合わせた広大な同盟の盟主となり,イタリア半島内の支配権を確立した。さらに地中海への勢力拡大をはかるローマは,地中海の商業交易権をにぎっていたカルタゴと衝突して(ロ)3度にわたるポエニ戦争を戦い,これに勝利してカルタゴを壊滅させた。一方,東地中海にも進出したローマは,ギリシアの都市国家や小アジアの王国を勢力下におさめ,前2世紀なかばには地中海全域を制覇するまでになった。
 だが,急速に発展したローマ社会では,市民の間の階層差が拡大し,ローマは内乱の時代に入ることになった。その幕開けとなったのはグラックス兄弟の改革であった。大土地所有を制限して中小農民を救済しローマ市民軍を再建しようとした彼らの改革は,大土地所有者の反撃にあい挫折した。その後(C)元老院の権威を重んじる閥族派と民会を基盤とする平民派の対立が激しくなり,また同盟市戦争や大規模な奴隷反乱などの混乱が続いたが,第1回三頭政治をへてカエサルによる独裁が実現し,ローマの共和政は事実上崩壊した。しかしカエサル暗殺後ローマの政治は再び混乱し,第2回三頭政治をへて,オクタヴィアヌスが(D)アクティウムの海戦でエジプトのクレオパトラと結んだアントニウスを破り,100年にわたる内乱に終止符がうたれた。オクタヴィアヌスは元老院からアウグストゥスの称号を与えられ,共和政の伝統を尊重したプリンキパトゥスとよばれる政治をおこなったが,実際には帝政時代の始まりであった。(E)その後五賢帝時代が終わるまでの約200年間,広大な領土と属州支配に支えられ,「パックス=ロマーナ」とよばれる安定期が続いた。この時期に帝国内の道路網が整備され,経済活動も活発化し,(ハ)貿易活動も地中海・紅海・ペルシア湾から南インドまで拡大した。
 3世紀になると,(ニ)カラカラ帝は帝国内の全自由民にローマ市民権を与える勅令を発布し,これによりローマ人と属州人の区別がなくなり,ローマ世界が広がった。しかし,東方のササン朝ペルシアや北方のゲルマン人の侵入が激化し,力をもった各地の軍団が次々に皇帝を擁立しては廃位させる(F)軍人皇帝時代となり,ローマの政治は混乱した。しかし,3世紀末になると,ディオクレティアヌス帝がオリエント風の専制支配を開始し,帝国の4分割統治など帝国の再編を行い,ローマ世界には再び安定と繁栄の時代が訪れた。またコンスタンティヌス帝は,330年に帝国の首都を東部のビザンティウムの地に移し,官僚制度の確立,職業・身分の固定化,(G)キリスト教の公認などの改革により帝国の維持を図った。しかし帝国の解体は進み,395年にローマ帝国は東西に分裂した。その後,西方では(H)ゲルマン人の侵入を防ぐことはできなくなり,5世紀になると西ローマ帝国はますます衰退し,476年最後の皇帝が退位して西ローマ帝国は滅亡した。一方,東ローマ帝国は1453年にオスマン帝国によって滅ぼされるまで約1000年間存続した。
問1 下線部(イ)に関し,ローマ建国事情をえがいた叙事詩『アエネイス』の作者は誰か。もっとも適切な人名を解答用紙に記入せよ。
問2 下線部(ロ)に関し,前216年に行われた会戦でローマ軍はハンニバルがひきいるカルタゴ軍に包囲され大敗したが,この会戦が行われたイタリア半島南東の地はどこか。もっとも適切な地名を解答用紙に記入せよ。
問3 下線部(ハ)に関し,この貿易を何というか。もっとも適切な語を解答用紙に記入せよ。
問4 下線部(ニ)に関し,この勅令を何というか。もっとも適切な語を解答用紙に記入せよ。
問5 下線部(A)に関し,ローマ共和政に関する記述のうち,誤っている記述を一つ選べ。
a.護民官の定員は,設置当初は2名であったが,次第に増加して前5世紀なかばに10名となった。
b.独裁官ホルテンシウスにより,平民会の議決が元老院の承認なしでも有効とする法律が制定された。
c.前367年のリキニウス―セクスティウス法により公有地の占有は原則として禁止されることになった。
d.最高官職である定員2名の執政官には,それぞれ同僚の執政官の決定を拒否する権利が与えられていた。
e.前445年に制定されたカヌレイウス法により,貴族と平民の結婚が認められるようになった。
問6 下線部(B)に関し,前272年にローマとの戦いに敗れ占領されたイタリア半島南部のギリシア系都市はどれか。
a.レギウム b.ネアポリス c.ベネヴェントゥム
d.タレントゥム e.ブルンディシウム
問7 下線部(C)に関する記述のうち,誤っている記述を一つ選べ。
a.平民派のマリウスは,執政官になってから兵制改革をおこない,無産化した市民を志願兵として採用した。
b.第1回三頭政治のもとで,カエサルは帝国の西方全域を,ポンペイウスは東方を,クラッススはアフリカ北岸をそれぞれの勢力範囲とした。
c.前91年から前88年まで続いた同盟市戦争の結果,イタリア半島全体の自由民にローマ市民権が与えられることになった。
d.トラキア出身の剣奴スパルタクスのひきいる奴隷反乱は,前71年にクラッススとポンペイウスによって鎮圧された。
e.カエサルは,元老院と結んだポンペイウスを破ったのち独裁官となり,さらに前44年に終身独裁官となった。
問8 下線部(D)に関し,この海戦が行われたのは何年のことか。
a.前33年 b.前31年 c.前38年 d.前27年 e.前35年
問9 下線部(E)に関し,この時代の皇帝に関連する記述のうち,もっとも適切な記述を一つ選べ。
a.スペイン出身のハドリアヌスは,最初の属州出身の皇帝となった。
b.五賢帝時代の5人の皇帝はいずれも実子をもたなかったので,有能な貴族を養子にして後継者とした。
c.ドミティアヌス帝は,ローマ大火の責任をキリスト教徒に負わせ,キリスト教を弾圧した。
d.ティベリウス帝はブリタニアを侵略し,この島の南部をローマの属州とした。
e.ローマ市のコロッセウムの建設に着手したのはヴェスパシアヌス帝である。
問10 下線部(F)に関し,軍人皇帝のひとりで,260年にササン朝ペルシアとの戦いに敗れて捕虜となったローマ皇帝は誰か。
a.ガリエヌス b.ユリアヌス c.ヴァレリアヌス
d.マクシミヌス e.アウレリアヌス
問11 下線部(G)に関し,ローマがキリスト教を公認してから,キリスト教の教義について審議する公会議がしばしば開かれ,さまざまな教説が異端とされるようになったが,431年のエフェソス公会議で異端とされたキリスト教の一派はどれか。
a.アリウス派 b.グノーシス派 c.アタナシウス派
d.ベネディクト派 e.ネストリウス派
問12 下線部(H)に関し,410年にローマ市を一時占領して略奪をおこなった西ゴート族の王は誰か。
a.アラリック b.テオドリック c.オドアケル
d.スティリコ e.ガイセリック


正解
問1 ヴェルギリウス 問2 カンネー 問3 季節風貿易
問4 アントニヌス勅令 問5 c 問6 d
問7 b 問8 b 問9 e 問10 c
問11 e 問12 a