FORZA世界史inBLOG

世界史の復習をサポートするブログです

夢と希望

2014年07月25日 | 何かの足しになれば
夢と希望という言葉を3月にはたくさん聞きます。小さな夢は幸せをもたらします。小さな夢を実現していくと、きっと幸せになれます。大きな夢を追い求める人は、人生を豊かにできるでしょう。大きな夢を実現すると、人生が切り開いていく。大きな夢を目指すことで人生を作る。新しい人生が始まります。一方で小さな夢を積み重ねれば幸せをつかみことができる。
希望はどうでしょう?小さな希望は安寧をあたえてくれそうです。安寧とは満足とか安心とか充足感
といっても良い。でも大きな希望は.チャレンジする強い心を育ててくれます。何かを手にしたいと思う気持ちを与えてくれるでしょう。

引退を迎えている高3生や、まだ部活を頑張っている諸君に

2014年06月25日 | 何かの足しになれば

 部活動をやっていると「自分ひとり」という世界から「縦横の関係」という世界への広がりを自覚できる機会を得ます。横との関係とは「仲間意識」だあったり「一体感」です。またより重要なのは縦との関係です。縦との関係とは「先輩のために」とか「後輩のために」といったこと。自分の行動が先輩や後輩に与える影響、自分ががんばることで後輩たちがその苦労を少しでも和らげることができるという配慮。このように「自分」という存在が何かを通じて受け継がれていくという体験はなかなか中学生や高校生ではできるものではないでしょう。
 たとえば、受験勉強と部活動との両立に自分が苦しんでいるとします。自分が部活動を引退した後、受験勉強でよい結果を残すことが、後輩のためにしてあげられることでしょう。このように今の自分が何らかの形で「残り香」を残していく。大人に一歩近づく瞬間のように思います。


授業の受け方

2014年05月26日 | 何かの足しになれば

授業中に教師が使う言葉を知ると、ちゃんと授業を受けられるようになります。その言葉とは、「だから」「つまり」「ようするに」といった接続語。これらの言葉を教師が口にした理由は何でしょう。その教師は、意識しているか無意識かはわかりませんが、大切なことを言ったけど伝わってないかな?と感じたから、その内容を繰り返したくなったわけです。
 同様に、「たとえば」「別の言い方をすると」などを教師が言った場合は、はじめに話した内容が難しいから、別の言い方をしたり、分かりやすい例を示したわけです。つまり、例を示した内容に教師は注目しているのですから、聞く側は注目すべきです。
 このような話は現代文の文章を読んだり、英文を読むときの基本スキルです。そのスキルを授業中にも活用すれば、その教師が大切だと思っている場所が分かります。それをノートにメモできれば良いノートが出来上がります。
 このことは良い教師の条件にもなります。教師はこれらの接続詞をうまく使って授業をすべきでしょう。


授業の受け方

2014年04月10日 | 何かの足しになれば
授業中に教師が使う言葉を知ると、ちゃんと授業を受けられるようになります。その言葉とは、「だから」「つまり」「ようするに」といった接続語。これらの言葉を教師が口にした理由は何でしょう。その教師は、意識しているか無意識かはわかりませんが、大切なことを言ったけど伝わってないかな?と感じたから、その内容を繰り返したくなったわけです。
 同様に、「たとえば」「別の言い方をすると」などを教師が言った場合は、はじめに話した内容が難しいから、別の言い方をしたり、分かりやすい例を示したわけです。つまり、例を示した内容に教師は注目しているのですから、聞く側は注目すべきです。
 このような話は現代文の文章を読んだり、英文を読むときの基本スキルです。そのスキルを授業中にも活用すれば、その教師が大切だと思っている場所が分かります。それをノートにメモできれば良いノートが出来上がります。
 このことは良い教師の条件にもなります。教師はこれらの接続詞をうまく使って授業をすべきでしょう。

反転授業としてのブログ

2013年12月28日 | 何かの足しになれば
いま世間では反転授業なるものが流行し始めています。予習として授業内容そのものを自分で学習し、授業はその知識を使って「考える」すなわち「応用する」というスタイルです。
このブルグは授業を説明し直したものです。しかし、数年経ったので逆に授業内容を事前に学習することもできる。さらに「桃プリ」があるので、授業の概要は「桃プリ」で学んでから授業に参加できます。
映像ではないが、読み物としてこのブログを「反転授業」風に使用してみませんか。
3学期はイスラム史と中世西欧史です。

成長課題

2013年04月11日 | 何かの足しになれば

生涯教育の基本に「成長課題」があります。このことは、狼に育てられた2人の娘に言葉やマナーを教えることができなかった、という話や、ボールを投げる技術を身に付けるのは3歳、ボールをけるのは10歳までが適切であるとか、そういったことでしられています。そういえば、50歳を過ぎてパソコンを使いこなすようになるのは大変な労力です。


 その一方で、この「成長課題」は、それぞれの年代が乗り越えなければならない課題を示しています。もちろん、その課題は時代によっても違うでしょう。さて、高校生の「成長課題」とは何でしょうか。学校によっても違うように思います。我々大人が、自分の時には「この時までにボールをけれるようになっておく必要があるよ。」とアドヴァイスされなかったことを、だから自分は「香川」に慣れなかったのか!とあとで納得したとように、今の高校生諸君にも、「今なすべきこと」はわからないのではないか。


 さて、高校生の「今なすべきこと」は、「自分でやり遂げた感覚」。いかがですか?


将来を決定するには

2013年04月03日 | 何かの足しになれば

 高校生が自分の将来を考えるということは非常に難しいようです。この難しさは、奥さんが夕飯を何にするかを決めるときの困難さと似ているかもしれません。つまり、夕飯のメニューを決定できないのは、昨日はあれで、一昨日はこうだったから、今日は何にしよう??という発想をしているにも関わらす、自分のレパートリーが少ないために、選択の余地が制限されているからです。


 高校生が将来を選択する際の困難は、自分の過去の経験が乏しい場合に発生します。もちろん、人間の経験は、実際に経験したことばかりではありません。本で知った知識や、他の人との会話や、やり取りも「経験」と言えます。したがって、クラブ活動で何部に入っていたかは関係なく、どのような活動であったか、顧問の先生やその他の大人、先輩との間にどのような会話があったか、彼らがどのように思考していたかに関心を持つこと、が重要なわけです。授業で何を学んだか、という点を取れば、その場合、暗記した単語や公式の量が問われているのではなく、どのように暗記したかとか、付帯知識、周辺知識からどのように思ったか、教師がどのように物事を捉えていたかに関心を持つことこそが大切になるでしょう。


 このように考えると、自分の将来を決めるには、高校生活そのものを「充実」させ、多様な経験をすることが、自分の将来を決定するといってよいでしょう。マニュアルにしたがって、大学のオープンキャンパスに行くことを否定するわけではありませんが、回りの大人は、高校生に対して「良い経験」をさせることに気を使いたいものです。


未知との遭遇

2013年04月01日 | 何かの足しになれば

 人間は経験に依存して生活しています。その経験は自身の知覚に由来していると言えるでしょう。つまり自分自身が感じたことを通じて、自分が経験したと考えるわけです。したがって、その人の知識や洋服のセンスや信念のようなものも、その人が知覚を通じて得た経験に依存しているといえます。しかし、それらが経験に依存しているだけなら、その人は同じことを繰り返すだけになります。

 人間にとって「未知」は「不安」につながります。自分が知覚したことのない「未知」に踏み込まないと新しいこと(知覚)ができません。そして新しい「知覚」が新しい経験となってその人の世界を広げていく。もちろん、自分の経験から推測することができない「未知」は不確実な世界です。その世界に踏み出さない限り豊かな人生、たような人生を送ることは難しいでしょう。

 「未知」という不安や困難に立ち向かうとき、自分はどのような行動をする人間なのか?この自分自身の「適応習性」を自分自身で確認することが必要です。受験勉強と部活との両立で悩んだとき、その人はどのような行動をとるのか?どちらかを諦める?最後まで挑戦する?つまり、「未知」の不確実要素にスポットを当てて「不安」に思うより、「未知」を前にしたとき、その一歩手前にいるときの「適応」を経験する。そしてその時に自分はどのように適応したのか(習性)を積み重ねていく。

 


笑顔と友情

2013年03月18日 | 何かの足しになれば

笑顔と友情が人生においてもっとも大切なことです。金は人生の助けにはなるが、人生そのものにはなりません。この場合、笑顔とは、自分の周りにいる人たちが自分を見つめる視線であり、それは自分より先輩の方々から、人生の後輩の人たちまで含みます。このような人生の一瞬を送りたいものです。


人類の宿命

2013年03月16日 | 何かの足しになれば

 ホモサピエンスはホモ=人類、サピエンス=賢い人という意味です。二足方向を始めた人類は2つの部位を大きく進化させました。ひとつは脳でもう一つは骨盤です。脳の容積増加した結果、当然ですが頭蓋骨も大きくなりました。その一方で骨盤が二足歩行に適応するために体積が小さくなりました。

 すると人類は、大きな頭を持った幼児を細くなった産道から出産する、という必要にさまられたわけです。その結果、現在の我々の社会が見えてきます。埋めれてくる幼児は未成長の段階で出産することで、つまり小さく出産することで、この矛盾する進化を乗り越えたわけです。

 さらに、あまりに未熟な子供を守るには、母親の力だけでは無理でした。だからこそ人類は子供を社会で育てるようになったわけです。カントがいうように、人間は教育されて初めて人間になるとも言えます。別の見方をすれば、社会が子供を育てるのは人類が人類であるための宿命だということでしょう。


学校の責務について

2013年03月15日 | 何かの足しになれば

 学校が社会に果たすべき最大の責任とは何か。今の世情からみると、生徒の安全確保などもその責務のひとつにあげることもできるでしょう。また、もっとも多く聞こえてくるのは、生徒の人格形成という解答でしょう。

 しかし、子供の人格形成は、学校もその任に当たっているのはもちろんですが、地域社会、家庭なども関与していることです。しかし、学校にしかできないことは、生徒の学力形成である、という点を考えていく必要がありそうです。子供の学力形成は塾や予備校もその任にあたっていることは確かです。しかし、それらの機関ではできないことがあります。その理由は「学力」は「多面的」だからです。塾や予備校では、その学力のうち「知識習得」「知識運用」という要素を主に担っています。それらを「普遍化」することで「学力」が「学問」に近づく。その点を学校の授業で担いたいものです。


失敗の数だけ

2013年03月11日 | 何かの足しになれば

 失敗の数だけ人間は成長する、といいます。では、どうすれば人間は「失敗する」ことが出来るのでしょうか。それには安心して失敗する状況を作ることでしょう。このことは、安易に失敗しても良い、と言うわけではありませんセーフティネットとかいう感覚ではないのです。本気で失敗した!と思うことが大切です。
 

ではどうすれば、失敗することが出来るでしょうか。それは、周りの大人にとって大切なことは、その結果については、「失敗という判断を下す」が、失敗したその人を否定しない。このことが安心して失敗させ、その失敗によって成長させることになる。
 

敗戦から学ぶ、ともいいます。敗戦しても学ぶ為には、何が出来て何が出来なかったのか、出来なかった理由は何で、出来か理由は何か、という分析が出来るような敗戦をすべきでしょう。

 この2つのことは全く同じことを言っています。失敗したその人自身を責めないためにも、周りの大人は「失敗をしていく過程」に付き合う必要がありそうです。


学歴について

2013年03月11日 | 何かの足しになれば

 世の中が複雑になるにしたがって、人は自分がいかに有能であるかを示す必要が生じてきました。農業社会では95%程度の人々が農業に従事し、誰もが等しい生活レベルにあったわけで、自分が他の人に比べて優れていることを示す必要などなかったのです。しかし、工業社会から情報社会になると、就く仕事によって収入が大きく変わってきました。豊かな暮らしを送くるための仕事には誰もが就きたいのは当たり前で、そのためには自分がいかに他の人間より有能であるかを証明する必要が生じてきました。


 さて自分の能力を証明するにはどのようにしたらよいでしょうか。自分のことをよく知る人にだけ、自分の能力を証明するのなら話は簡単です。しかし現実は、自分のことをまったく知らない人に、自分が他の人よりも優れていることを示す必要がある場合がほとんどです。
 芸術やスポーツ、職人の世界など「専門的技能」に習熟していることも能力の証明になりえます。ただし、その場合、プレーや作品など誰もが判別できる形で示す事ができる点が重要になります。


 また、別の方法として「学歴」が考えられます。たしかに、「学歴」は自分の能力の一部を証明する手段にしか過ぎません。ここで注意したいのは、「ひとつの方法で自分の能力をすべて証明することなど不可能である」という点です。その意味で学歴をとらえてもよいのではないでしょうか。


合格者が使っていた参考書・問題集

2013年03月09日 | 何かの足しになれば

高1の1月ベネ模試で65期生は惨敗でした。模試の分析から問題点が見えてきました。

そのうち早急に対応すべき点として2点に絞って対策を立てることにしました。それは、

①単語不足

②読みのスピードが遅すぎて、問題を全部解き終わらない。

この時、②の問題点解決のために利用したのが上の参考書です。参考書選びの最大のポイントは、使い方をしっかり説明していること。

この本は、それもクリアしています。その使用方法に従ってこの本を利用したのは高2春から夏にかけて。

レベルは3段階ありますが、センターレベルまでで十分でしょう。


プラトン的に存在するか?ニーチェ的に存在するか?

2012年12月13日 | 何かの足しになれば

 「存在」について対照的な志向を示した二人の巨人の話です。倫理や世界史でプラトンの「イデア」について学習します。「イデア」とは不変の真理のこと。たとえば「机」を紙に書いてみてください。多種多様な「机」が存在するにもかかわらず、誰もが「机」をイメージできます。その誰もが共通して持っている「机」こそが、机のイデアです。したがって、そのイデアは個別に存在する机の中に含まれていることになります。つまりプラトンが言う「存在」とは、イデアすなわち「不変の真理」のこと。誰かに出会ってその人の影響を受けても、決して変わることのない自分が存在する。それがプラトンのいう「存在」です。決して変わることのない自分がいる。そうプラトンは説くのです。


 一方、19世紀に登場したニーチェは、「変化することによって存在する」といいます。古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの言葉がニーチェを理解するヒントになるのですが、それは「人間は決して同じ川に入ることはできない」という有名な言葉です。一回目に入った時の川とは全体としてみれば変わってないように思えますが、そこに流れている川の水は、一回目に入った時の水ではない。なかなか示唆に富んだ言葉です。ニーチェは存在が立証できるのは、その存在が常に新しく変化しているからだ、というわけです。彼は、そのように不断の変化を続けている人間を「超人」といいました。つまり過去の自分を越えていくことを続けることで、自分の存在を感じる人間のことです。


 過去の自分、現在の自分、未来の自分、これらは刻々と時間とともに変化している。そうであるからこそ人間は存在しているといえるのだ、とニーチェは言うわけです。誰かと出会ったときに、その人から受けた影響を自分のものにして、新しい自分が存在することを感じる。そんな存在の仕方がニーチェ的です。
 あなたはプラトン的に存在しますか?それともニーチェ的ですか?