歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

比企郡武蔵武士関係遺跡巡り―歴史雑感〔21〕―

2015年10月01日 01時00分01秒 | 日本史(古代・中世)

2015年9月13日(日)、武蔵野文化協会・国宝史蹟研究会共催の「武蔵武士の故郷 比企に板碑と和紙の源流を探る」に行ってきました。少し遅くなりました、ここでの武蔵武士関係遺跡を紹介します。巡路は①伝源義賢墓、②大蔵館、③向徳寺(板碑群)、④菅谷館、⑤大聖寺(板碑)、⑥下里板碑割谷遺跡、⑦伝統工芸館(和紙)でした。

写真1は、最初の訪問地の「伝源義賢墓」(埼玉県嵐山町比企郡大蔵字大東66)です。古式五輪塔として県内最古とする五輪塔(鎌倉前期建立と推定)ですが、火輪・水輪部のみが現存しており、空輪・地輪部は後世に補われたもので、風輪は欠損しています。凝灰岩製です。源義賢は河内源氏の源為義次男です。1153(仁平3)年、上野国多胡郡に下り、次いで武蔵国の桓武平氏秩父一族次男流の秩父(河越)重の婿となり、武蔵国大蔵館を拠点とします。1155(久寿2)年8月16日、相模国鎌倉を拠点として、秩父一族長男流の秩父(畠山)重能に支援された兄義朝長男義平の攻撃を受けて重と共に戦死します。これが武蔵国の覇権をかけた大蔵合戦です。次の訪問地「大蔵館」が義賢居館・合戦の地とされています。義賢遺児の駒王丸が信濃国木曽谷に逃れて成長して木曽義仲として治承・寿永の内乱に登場することはよく知られたことです。

写真2は、「大蔵館」(埼玉県比企郡嵐山町大蔵)です。県道172号(大野東松山線)から大蔵神社入り口を撮ったもので、左側の土手が館の西南角の土塁にあたります。館の規模は東西170~200m、南北220mで、武士館の基本的構造である単郭構造となっています。本館は源義賢が築いたと伝えられていますが、本館の東約100mには鎌倉街道上道と伝えられる道があり、本館は鎌倉・武蔵国・上野国を結ぶ交通上の要衝にあることになり、発掘調査から鎌倉期・南北朝期の補修・補強が認められ、室町・戦国期に至るまで利用された可能性が考えられます。

写真3は、向徳寺(埼玉県比企郡嵐山町大蔵635)の「向徳寺板碑群」です。現在、鎌倉期・南北朝期の19基の板碑が覆堂に保存されています(本寺全体では38基)。写真右の板碑は1250年頃と推定される本寺最古の阿弥陀仏板碑(高147cm・幅78cm)です。写真中央の板碑は正応六年(1293)銘の阿弥陀三蔵板碑(高136cm・幅38cm)です。写真左の板碑は康永三年(1344)銘の阿弥陀三尊板碑(高210cm・幅53cm)で、本寺で最大のものです。以上は緑泥片岩製です。本寺の本仏は国指定重要文化財の「銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像」ですが、当日は法要のため拝観することが出来ませんでした。本寺は、鎌倉時代中期に武蔵武七党児玉党の小代氏一族の西阿創建の草庵がはじめと伝えられた、現在時宗の古刹です。実際に阿弥陀仏如来像台座銘には「武州小代奉」「治鋳檀那父栄尊母西阿息西文」「宝治三 二月八日」とあり、それを裏付けています。従って、本地の板碑群は小代氏に関係したものといえます。

写真4は、「菅谷館」(埼玉県比企郡嵐山町菅谷)の本郭と二ノ郭間の空堀です。菅谷館は鎌倉期前期の秩父一族嫡宗の畠山重忠の館とされるところですが、現在の遺構は本郭・二ノ郭・三ノ郭・西郭・南郭からなっており、戦国期の城郭の様を見せています。これは写真の空堀が薬研堀であることからも分かります。本館は比企郡城館跡群菅谷館として国史跡に指定されています。

写真5は、大聖寺(埼玉県比企郡小川町下里字観音山1857)の国指定重要文化財の「石造六角法華経千部供養塔(六面塔)」です。6枚の偏平岩を六角の筒型に組み合わせたもので、高136cm・各面幅32cm、当地で産する下里石(緑泥片岩)製です。康永三年(1344)三月十七日の銘があることから、南北朝期の造立と分かります。写真に見るように、各面上部に阿弥陀如来の種子を蓮台に乗せています。天台宗の石青山大聖寺威徳院は1340(暦応3)年に希融法印開山・源貞義開基と伝えています。

写真6は、「下里板碑割谷遺跡」(埼玉県比企郡小川町下里字割谷)の第1号トレンチです。本遺跡は国史跡に指定されています。本トレンチは黒褐色色の岩盤(上段)・畳一畳大の板石(中段 長1.8m・幅80㎝以上・厚18~22㎝の緑泥石片岩 横割りを目的とした工具痕あり)・褐色に風化した岩盤(下段)の3段の階段状となる石材採石遺跡遺構です。

最後の写真7は、「阿弥陀図像板石塔婆」(埼玉県比企郡小川町下里)です。これは帰途の途上、車内から撮ったものです。写真中央の本板碑は長享二(1488)年銘があり、高141㎝で、放射光を背した阿弥陀如来図像が刻されています。二十三夜講に集った人々が建てたとされる、民間信仰板碑の代表例です。

(2015.10.01)

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