遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『荒仏師 運慶』 梓澤 要  新潮社

2016-09-23 09:49:25 | レビュー
 運慶についての伝記小説である。今までに運慶作と称される仏像の実物や写真及びその解説書は見ているものの運慶その人について記された本を読んだことがない。そのため、どこまで史実資料が現存するのか知らない。著者は史実を踏まえ、学説などで意見の分かれる部分は独自の解釈をし、資料のない空隙に想像力を羽ばたかせて、運慶像をここに描ききったのだと思う。
 小説というフィクションを前提にしてだが、運慶という人物に肉迫する上で学術書的なものより読みやすく、運慶に一歩近づける好著である。この小説をトリガーにして、学術的見解と対比をしてみるのもおもしろいと感じている。

 読後印象として、いくつかのテーマを巧みに絡み合わせながらストーリーが織りあげられていると思った。
 1) 木を刻み造仏すること、仏像の美の創出を、運慶個人としてどのように考え、問い続けたのか? 造仏への懊悩と信仰心に関わる美の探求。
 2) 後に慶派と称される仏師集団を父康慶から継承した運慶が、奈良仏師の棟梁として、仏師集団をどのように率いて行ったのか? 凌駕!京仏師と慶派の確立・興隆。
 3) 父の弟子・快慶は兄弟子にあたる。生涯のライバルとなった快慶は、運慶にとってどういう存在だったのか? 仏師としての運慶と快慶の確執。

 このテーマを語っていく上で、運慶の生い立ち、運慶の私生活の側面が重要な背景となっていく。それが運慶の生き様に直結していく。また、運慶の造仏は彼が生きた時代の推移と密接に関わる。有力な造仏の発願主が居なければ、運慶がいくら優れた技量を持っていても、仏像を具現化し、世に示すことができない。発願主は当然ながら、当時の権力者である。つまり、その時代における権力者の有り様と確執、政争の実態などを含めて、時代そのものを描き切らねば、運慶を描けないことになる。
 つまり、運慶の私生活と時代を如何に描いていくかということが、上記テーマをリアルに描く前提としてのサブ・テーマだと思う。

 私が特に興味を抱いたのは、上記3つメインテーマの内の1と3である。

 プロローグは、「わたしは美しいものが好きだ」という一行から始まる。著者は、運慶が「猿みたいに醜い顔」と母から毛嫌いされた醜男として生まれた。5歳かそこらから鑿を操り、仏の手・足や台座の飾り彫りなどを器用に作り出す天賦の才を備えていたと記す。そこに運慶の元がある。「目に見える美の他に、目に見えぬ美がある。真に大事なもの、真に気高いものは目に見えぬ。仏もそうだ。」(p7)とし、「わたしは美に恵まれなかったが、誰も気づかない美を見つけることができる。この手で美をつくり出すことができる。」と運慶は自負する。その運慶が、「姿かたちなき仏たちと、それに懸命に祈りすがりつくしか、それしか救われようのない人間たちをつなぐ、それが仏師だ」(p7)と悟るまでの栄光と挫折がここに描かれて行く。
 運慶が生涯において手掛けた仏像の制作プロセスを主軸にしてストーリーが展開していく。造仏行為、そこに運慶の生き様がある。
 
 運慶が10歳のとき、父康慶に連れられて、奈良の竜王山にある長岳寺に行く。阿弥陀三尊像の前に座し玉眼の光る眼を運慶が眺めたシーン、それを仏師運慶の原点として著者は描く。もう一つは、平重衡が大将となり奈良に攻め寄せ、興福寺・東大寺を焼討ちした折りに、類焼、焼尽を防ぐために運慶は他の仏師たちと必死に諸仏像を搬出・救出する。その時の阿修羅像への仏師としての思いが描かれていく。また、延寿という女性が運慶の美意識に大きな影響を与えたとする。京一の評判の傀儡女が春日神社若宮の前の広場で興行するのを運慶が見る。運慶の私生活において、延寿との出会い、関係、唐突な別れがもう一つの原点になる。運慶と延寿との間に生まれたのが熊王丸。運慶の長男で、後に仏師湛慶と名乗る。
 
 造仏という点では、柳生の里の円成寺に納められた大日如来像の制作経緯から書き出されている。康慶が運慶に独力で制作せよと指示したという。著者は運慶が「絵木法然(えもくほうねん)」というキーワードを念じながら造ったと描く。このキーワードが巻末に再び出てくる。「絵に描かれたものであれ、木石や銅で造られたものであれ、仏の姿は仏そのもの。真実の仏である」(p26)ことを意味する言葉である。
 煎じ詰めれば、運慶の人生は「絵木法然」が造仏行為において自然体となるに至るまでの葛藤だった。著者はその葛藤を描きたかったのだろう。そこに快慶がライバルとして登場してくる。最後の最後に、著者は快慶にこう語らせる。「いまなら、棟梁のお指図に忠実に従えるでしょう。もっとも、それでは面白くないと言われるのでしたら、話は別ですが」と。

 慶派集団の棟梁となる運慶の立場では、父・康慶の力量と影響が大きかったようだ。康慶は奈良仏師の棟梁・康朝の弟子だった。康朝の実子に成朝が居るのだが、仏師としての技量・力量では康慶の評判が上回り、実質的棟梁になっていく。その康慶が運慶を跡継ぎにして慶派の仏師集団を形成するという明確な父子継承のシナリオを描く。勿論、そこには運慶の類い希な仏師としての才が前提となっている。亡くなった康朝の正統な奈良仏師後継者であると思っている成朝とは一線を画していくことになる。
 慶派の棟梁となる運慶は、康慶の思いを引き継ぎ、ハングリー精神をトリガーとしていく。それは都が奈良から京都に移り、南都が衰微していく時代の変化に起因する。京の都では、仏師・定朝から始まった本様を継承する院派・円派がいわば造仏を独占していて、奈良仏師が入り込む余地がない事による。奈良での造仏にも発願主との関係をもとに京仏師が進出してくる。奈良仏師にとって、力を発揮できる場がないのである。
 平家の滅亡、源頼朝の台頭により時代が動き始める。興福寺の復興が緒につくことと重源上人による東大寺再建の大勧進による造仏活動が大きな契機になっていく。京仏師に互して、奈良仏師の技量を示すまたとないチャンスになっていく。
 そして、鎌倉に進出し造仏の請け負いに乗りだした成朝の後を受けて、運慶が鎌倉に滞在して造仏を始める。それが運慶の存在を知らしめる契機となったようである。奈良において、運慶が北条時政から伊豆韮山の願成就院に安置する諸仏の制作を依頼されたことに端を発する。後に運慶が康慶から仏師集団を継承したおり、慶派集団を拡大できる基盤は、鎌倉幕府の中枢関係者からの発願依頼という支援があった。
 特にこのストーリーでは、運慶と北条政子との仏像を縁とする関係が一つの軸として描き込まれていく。著者の目を通して、北条政子という存在を知る機会になる。やはり、興味深い女性である。
 京仏師を超える仏像を造り世間の名声を得ること、奈良仏師の生きる場を確立し、隆盛を図る、つまり院派・円派を凌ぐという悲願を運慶は康慶から引き継ぐ。そのハングリー精神をバネにした苦闘と実績の蓄積が描き込まれていく。父の悲願だった京進出を運慶は果たすことになる。八条高倉に運慶が仏所を設けて活動を開始する。
 慶派を率いる運慶の描写は、ビジネス・マネジメント及びプロジェクト・マネジメントの視点、プロデューサー的視点として読んでもおもしろいと思う。

 運慶が棟梁となると同時に、快慶は運慶門下の仏師となる。運慶は、快慶が独自の工房を奈良に設けることを認め、重源上人の仕事を中心にさせる。また、弟の定覚に奈良の仏所の運営を委ねる。快慶の心中はいかばかりか。この小説に快慶が直接快慶が登場するのは重要な場面だけであるが、運慶の心中における葛藤描写として快慶が登場してくる。読ませどころの一つである。

 この小説の中で太い軸として、運慶に影響を与え支援者ともなっていく人物が数人登場する。上記の北条時政とその娘・北条政子、重源上人は勿論である。そこに運慶が京に仏所を開設した以降に、文覚上人・八条女院が登場する。造仏の発願主側として登場するこれらの人々との関わりが、この小説での読ませどころとなっていく。
 文覚上人との関わりでまず明恵が登場する。しかし、快慶作仏像との関わりで運慶と明恵の関係が深まるところが興味深い。

 運慶の私生活が描き込まれていく。延寿を最初にして、父・康慶の政略的配慮から運慶の正妻となった狭霧、運慶の鎌倉滞留の5年の間に関係ができた漁師の娘・由良、京に仏所を開いた以降のあるときから、東山の路地裏のしもた屋に囲ったあやめ、が登場する。四者四様の有り様がこれまた興味深い。4人の存在は史実なのか、著者の創作・フィクションが交じるのか・・・・・。
 延寿の生んだ子 薬王丸(長男) 後の仏師・湛慶
 狭霧の生んだ子 三男 後の仏師・康運(二男)、康弁(三男)、康勝(四男)
         一女 如意(一時期、冷泉局の養女となる)
 由良の生んだ子 2人 後の仏師・運賀(五男)、運助(六男)
これら、運慶の息子たちが、慶派集団の一員として、運慶の許で活躍の機会を与えられていく様を記していく。

 この小説での著者の感性と想像を加えた描写の二例を抽出しておく。これがいわゆる史実に基づく「伝記」ではなく、伝記小説である由縁になると思う箇所である。

 一つは東大寺南大門二王像について。通常、この二王像は運慶・快慶の合作と言われる。では、阿形・吽形のどちらを誰が造ったのか? 普段ならそこまで考えず、運慶・快慶作で思考停止してわかったつもりでおしまい。なのだが・・・・。

 手許の『日本仏像史講義』(山本勉著・別冊太陽)を読むと、学術的視点からこう説明されている。墨書他の記録から、「素朴に考えれば阿形は運慶・快慶が、吽形は湛慶・定覚が担当したことになる」とまず記し、両像を見た印象について説明したうえで、「前者(注記:阿形)には快慶の作風を、後者(吽形)には運慶の作風をみるのが自然である」と言う。そして「この東大寺南大門の場合は惣大仏師運慶、阿形運慶・快慶、吽形湛慶・定覚という分担で、運慶はこのとき阿形の制作を経験ゆたかな快慶になかばまかせ、湛慶・定覚の担当した吽形の制作を指導することがむしろ多かったのであろうか」「そこに様式上の和漢の対照が意図されているようにもみえる」(p210)と説明されている。
 同様に、奈良国立博物館で開催された『御遠忌800年記念特別展 大勧進 重源』の図録には、「過去の学説では主として作風の検討から、阿形の担当者を快慶、吽形は運慶とみることもあったが、吽形像納入の経典奥書に大仏師として定覚・湛慶が、阿形像持物の墨書銘に大仏師として運慶・アン(梵字)阿弥陀仏の名が見いだされたことにより、これを素直に受けとって、阿形像が運慶と快慶、吽形像が定覚と湛慶の合作と考えるのが穏当だろう。ただし全体の統轄は運慶がとったはずである」(p16)と記している。

 この小説で、著者はこういうストーリーで描いて行く。運慶が考え抜いた役割分担として、阿形は定覚とともに快慶が制作にあたり、吽形は運慶と湛慶がやるという。そして運慶がすべてを統轄する。「ただし、寺に出す指図書では、吽形像より格上の阿形像をわたしと快慶、吽形像を定覚と湛慶が受け持つと申請してある」(p256)そこに著者の感性と想像力が羽ばたいていく。その展開は本書で味わっていただきたい。

 上記『重源』は「この二躯の金剛力士像の特異性は、通常とは阿・吽行の配置が逆であること、持物・手勢も日本の伝統的な図像とは異なること、両者が門の内側に向き合うこと等である」と(p16)
 この二王の像は、重源が宋国から持ち帰った北宋の霊山変相図に描かれた二王像の形での造仏を運慶に要望するストーリーとなっている。(「宋画の霊山変相図」という点は事実として証明されている。『重源』参照)運慶は重源上人の要望に対し呻吟した上で、独自の創意を加え図像を描いて行く。この部分もおもしろいストーリー展開となっている。
 そして、二王が向き合う形である点について、ほぼ二王ができあがったころに、運慶が南大門の現場に行き、二王像が正面を向いている状況を想像する。そして、急遽二王像が向き合う形に、南大門の造作自体の変更を重源上人に提案して認めてもらうという経緯が書き込まれていく。それはなぜか? 著者はその理由をきちりと描き込んで行く。こんなところも、阿吽形の配置が逆のことと合わせて、再認識させされた。今までに、この南大門の二王像を見、通り抜けながら、また、もう一つのブログでの記事で南大門の写真を紹介したこともあるのに、深く考えることもしていなかった点である。頭にガツンという感じ・・・・。

 もう一例、興福寺南円堂に安置されている有名な僧体の「無著像・世親像」は、普通運慶作とされている。普段はそれ以上考えない。だが、これも、運慶が棟梁として率いる仏師集団、つまり運慶の工房が製作しその代表として運慶作と簡略に記されているだけなのだろう。それは宗達筆と記される絵でも同様の事情である。手許にある学習参考書では、無著像の写真を載せ、「運慶とその一門の仏師たちにより造られたものと推定される」と丁寧に説明している。(『新選 日本史図表』第一学習社p57)
 著者は、運慶が、20歳になるやならずの下の二人、運賀と運助に思いきってやらせるという形で描写していく。勿論運慶がつきっきりで指導してやらせるという前提なのだが。著者の想像力が羽ばたいていく。

 この小説、仏像制作の過程で運慶がその姿の図像化や表現に呻吟する場面描写が、運慶の仏の美の探求として数多く描かれて行く。これ自体、見方を変えると、楽しみながら読める仏像入門編にもなっている。そういう意味でも、おもしろい。

 病に倒れた運慶が、病床でいまのうちに言っておきたいことをぽつぽつと語ったという言葉が書き込まれている。これが記録に残る発言なのか、著者の感性を踏まえたフィクションなのかは知らない。しかし、印象深い言である。呻吟し、悪戦苦闘した運慶が到達した仏師としての真理なのだろう。ここに至るまでの運慶の生き様がこの小説の読ませどころである。学術的「伝記」では記せない側面だから。

*無の境地とか、空寂の心で彫れとか、それにこだわること自体が、自我意識から逃れらぬ証拠だ。こだわらず、願わず、厭わず、自分を忘れ、時を忘れ、人を忘れ、愛も憎も忘れよ。
*自分を否定し尽くせ。個性などというものを否定し尽くしたところに、真の自分を見出す機縁がある。
*もし迷いが出たら、木の中の仏に訊け。かならず応えてくださる。
*人間の内にひそむ未知の可能性は、自我を没し尽くしたところに働きをもちはじめて、思いがけない力を引き出す。
*わしを真似るな。運慶の名に頼らず、自分自身になれ。わしを捨てろ。

 「貞応2年(1223)12月11日 運慶没す」の一行がこの小説の末尾である。

 ご一読ありがとうございます。


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運慶について  運慶年表 :「仏像の修復」(仏像文化財修復工房)
鎌倉時代の仏像~運慶・快慶を中心に~  平田玲子氏 
運慶作品リスト
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夢十話 夏目漱石  :「青空文庫」
  「第六夜」が運慶についての夢の話

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