遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『ダ・ヴィンチの右脳と左脳を科学する』 レナード・シュレイン  ブックマン社

2016-09-05 19:06:25 | レビュー
 著者はステージ4の脳腫瘍で余命9カ月と診断され、2008年9月6日に緊急手術を受けたという。悪性腫瘍の症状から回復した著者自ら大脳に障害がでる状況を体験している。2009年5月3日に本書の執筆を終え、5月11日に永眠したと「はじめに」に記されている。著者が晩年の7年間を掛けて取り組んだのがこの書である。

 本書はレオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を語る伝記という特徴を持つ。テーマは、レオナルドの広範囲にわたる活動の実績とその作品群、5000ページを超える手稿などを綿密に分析し、著者がその意味するところを脳の進化的発生を踏まえた現在の大脳科学の知見と連結させていくところにある。その論述がユニークである。読者は、レオナルド・ダ・ヴィンチの残した実績に対し、改めて脅威の眼差しを向けることになる。本書を読み、レオナルドの活動がこれほど多岐にわたっていたのかということを再認識した。レオナルド・ダ・ヴィンチはまさに他分野の能力発揮という点から歴史上の驚異的存在なのだ。

 著者は、本書の冒頭で、もしも芸術と科学の両分野の業績を兼ね備えた人にノーベル賞が与えられるとするなら、現在までの人類の歴史において、レオナルド・ダ・ヴインチしか該当者はいないと力説する。それを実証し論述している書でもある。そして、本書の最後は、「いまの時代を、彼は歓迎したに違いない。世界がついに自分の洞察力に追いついたと知って、たいそう喜んだことだろう」という一文で結ばれている。いまの時代とは、画像が優位を占め、多くの言葉を費やしても描写できないことを画像が一瞬ではっきりと示すという時代をさす。
 著者が、末尾の文の手前で記したことをまず、ご紹介しておく。
「レオナルドの『最後の晩餐』において、遠近法の始点はイエスの額の中心にあるのではないか。そう思うかもしれないが、違う。レオナルドはイエスの右脳の上にある一点に遠近法の中心を置くことを選んだ。彼はわたしたちに何かを告げようとしていたのだろうか。
 それともただの偶然だろうか。しかし、この絵には『偶然』など一つも含まれていない。この並外れたホモ・サピエンスは、一体何をわたしたちに告げようとしていたのだろう。
 書かれた言葉より、右脳によって処理されるイメージ・ゲシュタルトのほうが優れていることを、レオナルドは直観的に悟っていた。『君の舌は麻痺するだろう・・・・画家が一瞬で示すものを言葉で表現する前に』と彼は書いている。」(p323-324)

 著者は、レオナルドの脳機能に着目する。レオナルドの生涯の経緯を語り、その芸術作品、手稿として残された記録などを渉猟し、大脳科学の観点からレオナルドの実績を分析する。その分析はレオナルドの右脳と左脳の働きに関連づけられていく。そのために本書では、現在の大脳科学が到達している知見、つまり右脳、左脳及び脳梁の各機能を一般読者にもわかりやすい形で説明する章をところどころに挿入していく。大脳科学の知見の解説が、レオナルドの作品や手稿の事例分析においてレオナルドの脳機能の働きの説明をサポートしている。著者はこの書を通じて、レオナルドの脳の物理的構造を再構築しようと試みている。この切り口が実に新鮮である。
 
 最初に、レオナルド・ダ・ヴィンチについての歴史的文献で語られていることとして著者が列挙している事項から要点を大凡抽出してみる。
 *左利きのとても器用な男性。なお両手が同じように使えた。晩年に脳卒中を患い右手が麻痺したという。
 *「モナリザ」「最後の晩餐」「白貂を抱く貴婦人:チェチリア・ガッレラーニ」「岩窟の聖母」などレオナルドの作と確かに認められる絵画は15点ほど残っている。
 *遠近法の一つとして、アナモルフィック技法を考案した。
 *作曲家であり演奏家であった。記録はあるが音楽作品は現存しない。
 *多くの彫刻を制作したと言われるが、一つとして現存しない。
 *多数の素描が残されている。主要作品の準備段階のスケッチが何百も含まれる。
 *人体の解剖を数多く行い、精緻な解剖図を残している。
 *レオナルドが言葉で書き留めたり図解したりした物理の重要な原理は数多い。
 *科学の分野におけるおびただしい覚書やスケッチが残る。
   最初のカメラを考案し、原理を記述している。
   厚い紙に開けた針穴越しに太陽を見るようにという忠告を残す。
   酸素の働きを推測した。
   最初の二重船体の輸送船をデザインした。←20世紀のオイルタンカーの標準仕様
   土木工学と都市計画に大きく貢献。造園や庭園設計も実施。
   火炎放射器、機関銃、最初の元込め銃、砲身中ぐり装置、最初の蒸気機関砲、数人がかりで操作する巨大なクロスボウを考案。カタパルトや迫撃砲を改良。高い壁を急襲するための縄梯子を考案。史上初の戦車のスケッチも残されている。
 *レオナルドは日常的に逆向きに文字を書いていた。右から左に書く方法をとる。
 *思いついたことを最後までやり遂げないパターンを生涯繰り返す。
 *菜食主義者だった。生命を優先する考えをあらゆる生き物に広げ、あらゆる命とつながているという感覚をはっきり表明した。
 *同性愛者だったが性的欲望に身を任せることはなかったと考えている人々がいる。
  著者は、レオナルドが女性嫌いだという数多くの論評は、彼の文書を曲解していると考える立場をとる。
 *レオナルドの原作は残っていないが、一群の人々がその忠実な写しを作っている。

 つまり、レオナルドは、右脳と左脳を縦横に使い、様々な分野で活動できた特異な能力の保有者だった。著者はレオナルドの残した上記の事実の資料を分析し、レオナルドの右脳と左脳の構造に肉迫していく。

 レオナルドの脳の構造について、著者が結論づけている見解をいくつか取り上げてみよう。その論証過程は本書をお読みいただきたい。そこに著者の真骨頂がある。
 *右脳と左脳のどちらかが優位というパターンはレオナルドにはあてはまらない。
  レオナルドの脳の2つの半球は桁外れに緊密に結びついていた。
 *レオナルドの脳梁が、半球同士を結びつける過剰なニューロンでかなり膨れ上がっていたことを示す。
 *レオナルドは遠隔透視の超能力を持っていた初期の時空旅行者だと考えると、残された手稿や地図の描写などで納得のできることがある。

 結論的として、著者はレオナルドの脳の働きは、数百年から500年もの時代の先取りをしていたという。そこにレオナルド・ダ・ヴィンチの偉大性があると共に、悲劇があったのだろう。レオナルドの能力をその時代の何人も正当に評価できなかったのである。
 レオナルドの絵画やスケッチという画像に組み入れられた概念や技法は、数百年後、「アヴァンギャルド(前衛派)」と呼ばれた現代美術の特徴的なスタイルの前兆を内包している。「モダニズム」と呼ばれるものに直結する類似点があるという。レオナルドの芸術は不思議な先見性を秘めているのである。
 科学の領域に目を転じれば、レオナルドは原理を発見し、様々な分野で物や装置を考案し、スケッチを描き、概念を書きとめた。しかし、それらを実現する世の中の技術が無かった。「レオナルドが機械による産業革命に350年も先んじていたこと」(p215)に、彼の悲劇性があるといえよう。人体についての考察もまた同様である。
 
 一方で、著者はこう記す。「彼は自分の天分に気づいており、自分が売りに出せる最大の資源は、想像力と独創性であることを理解していた。彼が生きていた時代には特許権というものは存在せず、発見は盗まれて、誰か他人の金銭的な利益や名誉のために使われる可能性があった。自分を技術者や建築家、設計士として売り込めるかどうかは、苦労して得た知識の多くを秘密にしておけるかどうかにかかっていたのだった」(p191-192)と。レオナルドは自分が実験・観察しまとめたものを本の形で出版することを考えていたそうであるが、69年の人生では時間が足りず、実現しなかった。「手稿を出版できなかったため、レオナルドはその後の科学者の想像力を刺激することができず、歴史家の関心に火をつけることもできなかった」(p193)と著者は結論づけている。一言でいえば、時代を先取りした能力を発揮した故に時代にマッチしなかった偉人(異人)だったということなのだろう。

 こんな指摘もしている。
 *「レオナルドが書いた何千ページにものぼる手稿のどこにも、彼個人の美の概念は明確には述べられていない」(p181)
 *「レオナルドの脳を分析しようとしても、そこから断言できることというのは、ほとんどない。とは言え、この微妙なテーマに関する状況証拠ならたくさんある。」(p279)
 *「左利きで、両手が自由に使えて、鏡文字を書いたことは、脳の片側が優位にあるのではないことを示す。誰もが肉を食べていた時代に菜食主義にこだわったことは、全体論的な世界観を示唆する。左右の脳の半球が同等であることが、芸術と科学における史上並ぶもののない業績に貢献した。彼の脳のユニークな配線は、世界を高次の見晴らしの良い地点から体験する機会も与えた。」(p294)

 脳の構造という興味深い観点から光を当てられて、レオナルド・ダ・ヴィンチの全体像を眺めるというのは、そのこと自体がかなりユニークだと感じる。それと同時にレオナルドの生涯の行路および彼の活動の全範囲をも知ることができる本として有益である。副産物は現在の大脳科学の成果を一般読者として知ることができることにある。レオナルドに親しみつつ、彼の存在を再認識し、知らなかったことを数多く知ることができる本である。

 ご一読ありがとうございます。

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本書に出てくる語句から、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
ニューロン :「RIKEN BRAIN SCIENCE INSTITUTE」
神経細胞  :ウィキペディア
大脳皮質のおはなし  :「Akira Magazine」
右脳と左脳の違い  :「脳のお勉強会」
右脳派とか左脳派とかないから。脳に関する8つの誤解 :「カラパイヤ」
脳梁の発生  :「脳科学辞典」
分離脳の研究 :「Sophia University Media Center」
優位半球・劣位半球 :「脳科学辞典」
大学等におけるゲノム研究の推進について(報告) :「文部科学省」
閃光融合  :「asta muse」
遠隔透視  :ウィキペディア
アンドレア・デル・ヴェッキオ :ウィキペディア
Filippo Brunelleschi Florence building Cathedral technology is timeless
フィリッポ・ブルネレスキ  :「欧亜州共同体」
レオン・バッティスタ アルベルティ『絵画論』 :「鈴村智久の批評空間」
聖アンソニーアボットとサン・ベルナルディーノ・ダ・シエナ :「Wahoo Art .com」
ルドヴィコ・スフォルツァ  :ウィキペディア
ジャン・ジャコモ・カプロッティ  :ウィキペディア
フランチェスコ・メルツィ「女の肖像」  :「ミレーが好き」
チェザーレ・ボルジア  :ウィキペディア
ニッコロ・マキャヴェッリ  :ウィキペディア
フランソワ一世   :「中世を旅する」
アザー・クライテリア  :「artscape」
② マルセル・デュシャン その3「階段を下りる裸体No.2」 :「やさしい現代美術」

最後の晩餐 :ウィキペディア
岩窟の聖母 :「LOUVRE」(ルーヴル美術館)
白貂を抱く貴婦人の肖像 :「Salvastyle.com」
モナ・リザは世界初の3D画像だった!? 2つ並べて眺めてみると…!!!
         :「知的好奇心の扉 トカナ」
「モナ・リザ」の微笑みの謎がついに解明される! ダ・ヴィンチが施した驚愕の錯視効果が明らかに!!  :「知的好奇心の扉 トカナ」
東方三博士(マギ)の礼拝 :「LOUVRE」(ルーヴル美術館)
聖ヒエロニムス  :「レオナルド・ダ・ヴィンチのノート」
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた大量の解剖図デッサン画 :「カラパイヤ」
レオナルド・ダ・ヴィンチの芸術的解剖学
ウィトウィルス的人体図  :ウィキペディア
レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖手稿  弘前大学大学院医学研究科
日美 レオナルド・ダ・ヴィンチ~驚異の技を解剖する   YouTube
日美 レオナルド・ダ・ヴィンチの原点 「受胎告知」  YouTube
『レオナルドの絵画論』 :「国立国会図書館デジタルコレクション」
遠近法 :「MAU造形ファイル」
スフマート  :ウィキペディア
アヴァンギャルド  :「artscape」
モダニズム     :「artscape」
サン テュベール礼拝堂 (レオナルド ダ ヴィンチの墓) :「YAHOO! JAPAN ロコ」

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