遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『秋霜 しゅうそう』 葉室 麟   祥伝社

2016-09-19 18:23:34 | レビュー
 豊後の羽根藩に仕官した多聞隼人が、怨嗟の声を浴び鬼と呼ばれながらも改革を断行する。それは藩主の心を確かめたいという動機を抱きつつの孤高の歩みだった。そして壮絶な最期を遂げる。それが『春雷』という作品だった。そこに、「欅屋敷」という一つのキーワードがあった。
 この『秋霜』は羽根藩にある欅屋敷の存在に焦点を当て、『春雷』の続編に位置づけられる作品と言える。鬼隼人の死後3年が経過した時期に、このストーリーが始まる。
 だが、前作としての『春雷』を読んでいなくてもほぼ独立した作品としてこの小説を読むことはできる。ただ『春雷』を読了していると、今は隠居させられた前藩主三浦兼清の恨み心の深さが一層リアルにイメージできることになる。また、ストーリーの味わいに奥行きが広がるという違いはあると思う。

 「秋霜」は辞典を引くと、第一羲は「秋におくしも」であるが、「刑罰・権威・節操などの厳しいこと」(『日本語大辞典』講談社)、「[秋の霜が草木を枯らすことから]厳しい刑罰、寄りつきがたい威厳、強固な意志などにたとえていう」(『大辞林』三省堂)という意味がある。ここから「秋霜烈日」という熟語もある。
 この小説は、秋の霜に相当するのが前藩主三浦兼清の独りよがりな恨みから発せられる現藩主への指示である。いわば兼清が黒幕的存在。その指示とは、欅屋敷を殲滅せよというもの。欅屋敷の住人は、鬼隼人と呼ばれた多聞隼人の元妻、離縁していた「楓」という女主人を筆頭に、孤児の善太・勘太・助松・幸、隼人の屋敷に仕えていた23歳の「おりゅう」、および羽根藩きっての学者・千々岩臥雲である。いわばこれら力なき住人が枯らされる草木の立場と言えよう。欅屋敷と住人の殲滅がテーマとなる故に、その苛烈さが「秋霜」という言葉で表象されているのだろう。

 ここに登場するのが、主な登場人物の一人となる草薙小平太。年は32,3才。故あって大小の刀は差さず、赤樫の木刀を携えているだけの武士らしくない風采の武士。小平太は臥雲と並び秀才だった草薙伊兵衛の子として生まれる。伊兵衛は大坂蔵屋勤めだったのだが、小平太が13歳の頃、遊里通いに溺れて藩の公金を使い込み、召し放ちとなる。その翌年、母が貧窮の中で死亡。その後、父の死まで父子二人で暮らす。しかし、その経緯は小平太の出生にいわくがあったからと言う。そのいわくがこのストーリーに結びついていく。
 「どこまでも澄みきった秋空が広がっている」という一文から書き出され、小平太が豊後羽根の下ノ江の湊に着いたシーンから始まる。

 彼には父の故郷である羽根を見たい、知りたいことと己の出生の秘密を確かめたいという願望が根底にある。だが直接には欅屋敷を訪れるというのが目的だった。楓とおりゅうが、欅屋敷に男手がいなくなった不自由さを、おりゅうの夫で今は大坂に店を構える白金屋太吉に相談していたことと繋がっていく。太吉の添え状を持って、小平太は欅屋敷を訪れ、住み込むことになる。
 だが、彼の隠された目的は、欅屋敷の住人の抹殺にあった。それは、羽根藩の現在の家老・児島兵衛の意図によるものだった。それは三浦家の親戚の旗本から養子となって藩主の座に就いた25歳の兼光が、家老児島兵衛に兼清の指示を伝えたことに絡んでいる。兼光への指示は、突然隠居に追い込まれた兼清から発せられていたのである。
 草薙伊兵衛と小平太の過去を知る家老児島が、小平太を刺客にするシナリオを考える。それは藩に直接害の及ばぬ巧妙な仕掛けであり、速やかに闇に葬れる策謀になるはずだった。

 このストーリー展開のおもしろいのは、欅屋敷に住み込んだ小平太が欅屋敷の現状を深く知るほど、刺客を引きうけたという目的を投擲して、欅屋敷の守護に転換して行く顛末にある。小平太の意識の転換とその行動を描くことがこのストーリーでのコインの一面となる。
 これに対して、小平太を駒として使えないと知った児島兵衛がどういう画策をしていくか、家老児島兵衛の信念と生き様が描かれて行くところにコインのもう一面がある。児島兵衛の心中には幾層ものシナリオが存在したことを著者が描いて行く興味深さがある。児島兵衛が最後に死守したものは何か。ここにもまた、鬼隼人とは異なる武士の生き様があった。

 前藩主兼清は徹底的に愚弄な藩主として描かれている。まあこんな藩主が居れば、藩経営がうまくいくはずがない典型だろう。羽根藩の厄介者、癌的存在だといえる。
 前藩主兼清とその意を呈する児島兵衛に対して、欅屋敷の住人たちが小平太とともにどう闘うか、その攻防戦がこのストーリーの展開だと言える。テーマはやはり武士の生き様にある。そして楓の生き様がそこに加わる。

 『春雷』に登場した播磨屋弥右衛門が羽根藩に戻って来て、拠点を再構築するために前藩主兼清に取り入ろうとする。そして、食客の鶴見姜斎を欅屋敷に送り込む。その狙いは千々岩臥雲塾の講義の中で、異学の徒といえる証拠発言を押さえさせるためである。その言質が押さえられれば、欅屋敷取り潰しの大義名分となるからである。
 臥雲は百も承知であり、言質を取らせることをしない。姜斎は欅屋敷に居候をする間に、欅屋敷に馴染み、変節していく。つまり、欅屋敷の味方に転換していくことになる。
 臥雲が早朝から講義する『孟氏』の一節を姜斎が部屋の外で盗み聞く。
   人皆、人に忍びざるの心有り。
   先王人に忍びざるの心有り、
   斯(ここ)に人に忍びざるの政(まつりごと)有り。
   人に忍びざるの心を以て、
   人に忍びざるの政を行わば、
   天下を治むること、
   之を掌上に運らす可し。
 臥雲は「惻隠の心とは仁の端であり、羞恥の心とは義の端である。・・・・」と説いてゆく。この傍聴が、姜斎の意識の転換点となっていく。この姜斎の登場が、なかなかおもしろいエピソードとして組み込まれていく。

 欅屋敷を守る為に臥雲が命がけの対抗策の一計を立て、行動に移していく。これが一つの読ませどころである。この読ませどころは、臥雲の心中において『春雷』での事の経緯、鬼隼人と深く関わっているところにある。

 さらに、修験者の玄鬼坊が要所要所に登場する。彼の働きもこのストーリーでは脇役として重要である。彼は欅屋敷を見守り支援する一人である。最終ステージでは玄鬼坊が重要な役割を担っていく。玄鬼坊には壮絶な最期を遂げた鬼隼人への変わらぬ心服の思いが未だに息づいているのである。
 
 事態を大きく進展させるのは、江戸幕府の巡見使の一行が羽根に来るという事実である。巡見使は羽根藩を取りつぶせる事実を入手することを視野に入れて来訪しようとしている。それは欅屋敷に関わることであり、前藩主兼清の愚弄な行為、不祥事に直結している。つまり、欅屋敷の殲滅へのプレッシャーが強まるのだ。
 欅屋敷側は最後の策を取る。最終ステージが、やはりこのストーリーの読ませどころである。臥雲の生き様、児島兵衛の生き様、鶴見姜斎の生き様が明確になっていく。欅屋敷の守護者として、己の命を掛ける小平太の行動と生き様。そこには楓に対する思いが潜んでいた。児島兵衛の家士・墨谷佐十郎も主な登場人物の一人として挙げておきたい。このストーリーの展開では欠かせぬ脇役である。佐十郎にも一つの生き様がある。
 このあたりのストーリー展開を本書で味わっていただきたい。

 著者は巻末近くで楓にこう語らせる。
 「ともに生きて参りましょう。そうすれば、やがて心の内にも春がめぐって参りましょう。草薙様ならば、わたしのもとから去っていた春を呼び戻してくださると信じております。」
 末尾の一文は「山霞が、早春の風に吹き流されていく」である。
 秋空から始まり、早春でこのストーリーは完結する。
 
 最終ステージのクライマックスへのストーリー展開は、やはり涙を誘うものである。
 春雷、秋霜、そして早春の風のめぐり、この風は温かく柔らかい春の訪れ、心に春のめぐりきたるを暗示する。今は亡き多聞隼人が微笑みを浮かべていることだろう。

 ご一読ありがとうございます。


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