本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

本能寺の変:土岐氏とは何だ!

2015年12月14日 | 謎はこうして解けた!
 >>> 「クリス・ペプラーは明智光秀の子孫?」の歴史捜査【2015年12月14日追記】
 現代の土岐氏宗家(宗家という言葉があるかどうかは別として明治時代の華族の家柄の土岐家)が明智氏であることを知っている方はほとんどいません。あの謀反人の明智氏が土岐宗家を継いでいるという深い理由。それを知らずして本能寺の変を語ることはできません。残念ながら、本能寺の変研究者の誰一人として、このことに気付いている人はいません。

【2013年3月31日記事】
 拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』(プレジデント社)をお読みの方はお分かりのように、本能寺の変の謎を解くためには「土岐氏とは何だ」を理解しなければなりません。土岐氏の理解を欠いた、これまでの本能寺の変研究では真実に行き着くはずもありません
 残念ながら土岐氏について書かれた研究書は谷口研語『美濃・土岐一族』(新人物往来社)しかなく、かつこの本も絶版となっています。
 そこで、少し長文になりますが、この本からの要約文で皆様に土岐氏の概要をご紹介いたします。
 「土岐氏の発生は、八百数十年前、源頼光の子孫光衡が美濃の土岐川流域の土岐郡に土着して土岐氏を名乗った所から始まる。以後、美濃を基盤に発展し、南北朝動乱のはじめ四代頼貞が美濃守護となってからは歴代美濃守護を継承して戦国時代に至った。頼貞の孫で三代守護の頼康は尾張・伊勢の守護も兼ね、このとき土岐氏は最盛期を迎えた。頼康の守護在任は美濃四十六年間、尾張三十七年間、伊勢十六年間続いた。
 その間に土岐一族はそれぞれ拠った地名を名字に冠し、新しい家を興しながら濃尾平野一帯に分派した。一族は百余家になる。分出した家は明智荘に拠った明智氏のように新しい名字を名乗りながらも「土岐明智」とも称し土岐の名字を捨てなかった。土岐一族として共通の基盤を持っていたこと、それが社会的にも認知されていたことを示している。
 一族の発展は強固な結束によるところが大きく、それが具体化されたものが「土岐桔梗一揆」である。一揆とは「揆を一にする」つまり、一つの目的のために団結するという意味で、武士たちの一つの戦闘単位も一揆といい、『太平記』には頼康率いる軍勢を土岐桔梗一揆と呼んでいる。土岐氏の家紋を冠した戦闘集団、それが土岐桔梗一揆であった。
 しかし頼康没後、土岐氏の勢力を恐れた三代将軍足利義満の画策によって一族の内紛が起き、室町幕府への反乱「土岐康行の乱」へと発展、明徳元年(一三九○)に四代守護康行が幕府の追討を受けて没落する。これにより土岐一族の結束は崩壊し、一族の分裂や主家を捨てて幕府奉公衆となる有力庶家も多く、明智氏も幕府奉公衆となっている。美濃守護職の実権が斎藤氏に移った段階では、もはや土岐氏に一族としてのまとまりはなくなった。一五五二年、土岐氏最後の守護頼芸が斎藤道三によって美濃を追われ、これにより頼貞以来二百年間継承されてきた美濃守護土岐家は没落した」

 このように、土岐氏は足利幕府において一大勢力を築いた名門であり、一族の結束の象徴として「土岐桔梗一揆」という言葉を伝えてきたということは、その結束の強さが尋常でなかったことを意味しています。そして一族の結束意識は美濃守護・土岐家が没落してもなお引き継がれていきました。ちょうどユダヤの民がイスラエルの地を失って各地に散った後も、ますます強固な民族意識を持ち続け、「シオンの丘に帰る」という悲願のスローガンを掲げ続けたように、土岐一族には「土岐桔梗一揆」という帰るべき心の拠り所があったのです。
 最後の美濃守護・頼芸の追放事件は、本能寺の変のわずか三十年前のことです。一時は将軍家にも匹敵するような一大勢力を築き、そして没落した土岐氏の再興は光秀にとっても一族にとっても悲願であり、当時、明智光秀がその悲願を背負った人物であったことを世の中の人はよく知っていたのです。残念なことに、当時の常識を現代人はまったく知らずに本能寺の変について方向違いの通説を云々しているだけなのです

 ★ 通説の創作者は秀吉!
 ★ みんな秀吉にだまされた!
 ★ 織田信長:苛烈・冷酷説を斬る!
 ★ 通説を作った羽柴秀吉『惟任退治記』
 ★ 軍神豊臣秀吉が歪めた本能寺の変研究
 ★ 土岐氏解説集

 土岐氏を知らずして愛宕百韻の発句「ときは今あめが下なる五月かな」に込めた光秀の祈願を解読できるわけはなかったのです。
 ★ とうとう愛宕百韻改竄が証明された!

 >>> あなたも土岐氏では?

 
【文庫】 本能寺の変 431年目の真実
明智 憲三郎
文芸社

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7 コメント

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明智一族子孫の件 (近江商人門坂子孫)
2013-04-05 11:41:32
メール頂きながらご連絡遅れましてすみません!
 明智○さんはご主人の父に尋ねた時その事をあやふやな答えだったとの事です!世間一般では、悪人だからでしょうか?すみません!
 僕もご主人に尋ねた所返答が無く無視された感じだったので、関係有りそうな感じもしますけど、それ以上尋ねる事ができませんでした!
 ご本人も、尋ねられたそうですが、教えてもらえなかったそうなので、関係有るかもしれません!世間体を考えて返答されないのかも?です!
 僕を通じてお聞きするのもちょっと怖いです!
すみません!ここに書き込んだいいのか迷いました!
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了解いたしました (明智憲三郎)
2013-04-06 12:04:40
 情報ありがとうございます。多分ご推測の通りではないでしょうか。機会があれば私の方からアプローチを考えてみます。
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英勝寺のこと (A.AKECHI)
2013-05-27 17:10:55
4月6日のコメントとは無関係ですが、私も先祖が「明智一族」と伝えられている者の一人です。
さて、明智憲三郎様は鎌倉をよくご存知のようなので改めてお知らせするまでもないことかもしれませんが、英勝寺(鎌倉市扇ガ谷1丁目)の通用門や仏殿天井にある徳川家の葵紋と重なるように描かれている太田家の桔梗紋のことです。太田家の桔梗紋は、細桔梗の筈なのに、英勝寺の桔梗紋は、どうみても細桔梗ではありません。むしろ土岐の桔梗紋に近い太さの花弁です。
どうでも良いことかもしれませんが、「謎」に思えましたので、一言お知らせまで。
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情報ありがとうございま (明智憲三郎)
2013-05-27 18:33:21
 英勝寺の桔梗紋の件は知りませんでしたので、鎌倉散歩のついでに一度調べてみたいと思います。
 明智一族との伝承についてお伺いしたいところです。差支えなければ、facebookでメッセージをいただけると幸いです。
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名張藤堂家の桔梗紋のこと (A.AKECHI)
2013-06-14 23:30:04
桔梗紋の謎の続編です。
明智一族に縁があるかもしれない三重県伊賀市に名張という所があります。その地の領主だった名張藤堂家(=藤堂宮内家)の家紋のことです。名張藤堂家の祖の藤堂高吉は、丹羽長秀の三男で、豊臣秀長の養子を経て藤堂高虎の養子となった人で、土岐氏とは縁はない筈ですが、(藤堂の蔦ではなく)桔梗を家紋にしました。その訳をご存知の方はご教示下さい。 
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秀吉の中国大返しについつい (明治時代岡山県士族著兒島備州補伝読者)
2016-02-01 01:28:29
明智様の文を読み、秀吉の中国大返しについて疑問を抱く様になりました。
秀吉は備州高松城を水攻めしましたが、この策は兵を休養させるには大変良い策だと思います。秀吉は本能寺の変を知るや、休養充分だった大軍の兵を率いて本能寺に駆けつける事が出来たと、私なりに解釈できました。
遠い昔の出来事の解釈については、当事者からの見聞は出来ません。依って、一つの学説に追従してしまう事は危険であるという事を歴史学者は進んで認めなければならないと思います。
‥‥安易な金魚の糞は歴史研究にとって危険だと思いました。
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土岐家桔梗のいわれ (Unknown)
2017-03-08 03:13:25
土岐一族の末裔です
うちの家紋は土岐家桔梗です
桔梗のおしべが剣になっており、戦の折に道端に咲く桔梗を摘み、甲に指したと言い伝えがあります
戦となっても、野辺に咲く花に見入る心のゆとりを持てる強さを敵陣に見せつけ、敬服させたとも
実際はそんなことやっていたら、やられていたでしょうけど・・・ご参考までに
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