遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『決戦! 本能寺』 伊東・矢野・天野・宮本・木下・葉室・冲方  講談社

2016-09-10 22:24:03 | レビュー
 1月ほど前に、この「決戦!」シリーズの第4弾の『決戦! 川中島』を先に読んでしまった。この時に初めて第3弾として「本能寺」の7作家競作が出ていることを知った。そこで、遅まきながら本書を読んでみた。

 本書の表紙下部には、「その瞬間には、戦国のすべてがある。名手七人による決戦!」というフレーズが記されている。やはり、本の売り手は言葉巧みである。確かに、本能寺の変が勃発した瞬間に戦国時代が凝縮され、全てが信長の死一事への己の対処のしかたでその後の武将としての生き様がかかったのである。一人あるいは数人の有力武将のアクションが歴史的事実とは異なった選択をしていれば、歴史がどう変化していたかわからない。だからこそ、そこにすべてがある。そんな歴史的瞬間だったと言える。

 この競作の興味深さは、「本能寺の変」という史実についての断片的事実を伝える資史料を踏まえて、断片的事実間の大きな空隙を7人の作家がどう埋めるかである。誰の立場から京都に滞在する信長を眺め、本能寺の変が発生した時点で各武将が配置されていた状況をどう捉えるか。断片的事実をどのように解釈し、その空隙に筋が通り、全体を整合性のある一つの立体空間図に織りあげることができるかである。作家の選択した立場とテーマの捉え方、その発想が一つの短編としてストーリーの結実をみる。それが7人7色であり、実におもしろい。7人の作家の選んだ立場、観点から紡ぎ出された「本能寺の変」ストーリーの展開を読み、その背景を広げるとそこに当時の戦国状況の読み方のほぼ全てがあると言えるのではないか。断片的事実の認識に対し、仮設を立てて断片的事実に架橋するフィクションの紡ぎ出し方から、読者は逆に戦国時代の歴史認識への発想転換や解釈の可能性の幅を広げる楽しさを味わえる。勿論、新たな疑問が湧く契機にもなると思う。
 「本能寺の変」はやはり、戦国時代を考える上でエポック・メーキングな事件である。謎が多い故に、興味が尽きない歴史的事実だと言える。

 目次の順で、読後印象をご紹介したい。

< 覇王の血 >  織田信房の立場   伊東 潤  
  
 私は今まで、織田源三郎信房の存在を考えたことがなかった、というか、その存在すら意識しなかった。著者は、織田信長という覇王の血を引く男の立場で本能寺の変を少し搦手から語る。源三郎は永禄8年(1565)に信長の5男として生まれる。幼名は御坊丸。美濃の国・遠山景任に嫁いでいた信長の叔母・おつやからの要請で、遠山家に養子入りさせられる。武田家と領国を接する遠山家が弱体化し、武田家に降伏することから、8歳の御坊丸は武田の甲斐府中に人質の身となる。叔母のおつやは城攻めの大将だった秋山虎繁の室となる。このことが、信長の逆鱗に触れる。信長は、長篠の合戦後に続く武田攻めの過程で、御坊丸を実子のようにかわいがったおつやを磔刑に処す。
 御坊丸は武田家で元服させてもらい、源三郎勝長と名乗る。武田勝頼が長篠の合戦後の衰退傾向の中で、源三郎を織田信長への伝手として織田・武田の関係づくりに起用する。このことから、源三郎は父・信長に対面する。源三郎には、おつやを磔刑にした信長への憎しみと武田家のために一肌脱ぐという思いが原点にある。源三郎に対面した信長は、勿論源三郎の意中を確かめた上で、自害を命じる。それに対して織田家当主となっていた信忠が預り人にすることを申し出る。ここから、源三郎信房の主体的な生き様が始まる。つまり、真意を隠し、信忠の下で働くのである。信長の子供の中で、彼の能力が認められ、次第に織田家の中で、信忠初め人々の信頼を得ていく。
 岩槻城の真田昌幸の許に説得工作に行くという形で、源三郎は昌幸と再会する。源三郎と昌幸との本心レベルの話に至ると、昌幸が信長を謀殺はできるかもしれないというヒントを口にする。この発想が、源三郎を光秀に導いていく契機になるという展開。
 この小品の結末は、信忠と共に、覇王の血を引く源三郎信房もまた、二条城でなくなったという事実で終わる。信長に恨みを抱く源三郎が本能寺の変でどういう働きをしたのかについて描いた著者の発想・解釈がおもしろい。源三郎が覇王の血をどう考えたか、その点が読ませどころといえようか。

< 焔の首級 > 森乱丸の立場  矢野隆

 著者は、本能寺の変に遭遇した時、森乱成利が己の内奥にどういう思いを秘めていて、光秀の叛意がわかった後の信長の挙動をどう観察し、どう感じたかを描き出していく。
 天正10年6月2日の早暁に明智光秀軍が本能寺に来襲し、信長以下御小姓衆その他が奮戦し、信長等は焼失する寺の中でなくなったという断片的事実が残るだけである。この事実と周辺の断片的事実には大きな空隙があり、著者はそこに大胆な想像力で肉づけしていく。この時の信長の心境と森乱丸の思い、そして彼らの行動をどのように捉えていくか、それがこの短編の読ませどころである。
 私はどこかで読んだことから森蘭丸という漢字で親しんでいたのだが、幼名のランについて乱という漢字を当てるというのをこの短編で知った。諱も異なる名称の説があるようである。そこで、手許の『新訂 信長公記』(太田牛一著 桑田忠親校注 新人物往来社)を参照すると、巻末に近い「信長公本能寺にて御腹めされ候事」の条には、「御殿の内にて討死の衆、森乱・森刀・森坊、兄弟三人」と記し、その続きに小河愛平から小倉松寿まで23人の名前を列挙している。太田牛一は「乱」を使い、校注者は「長定(蘭丸)」と注記する。乱と蘭では文字から受ける第一印象からかなり異なる気がする。なお、太田牛一の本文では、兄弟の年齢の順の表記ではない事、また「力」ではなく「刀」と記されていることを知った。歴史的な一級史料も客観的な検証が必要な事例になる。
 さて、成利はこのとき18歳、兄森長可が槍働きひとつで川中島20万石を勝ち取ったのに対して、信長の小姓として兄長可が去った旧領美濃金山城5万石を与えられる。成利は既に元服を済ませた大人であるが、小姓として未だ幼名で呼ばれ、前髪立ちのままである。成利は初陣の経験がなく、戦働きもせず、5万石に大出世した己の現状、前髪立ちの小姓姿に内心忸怩たる思いを抱いている。それ故、己の武技を鍛錬することは欠かさない。身近に仕える信長の思考、信条とその行動力に敬服し、天下に武を布くという信長の気高き夢を崇拝している。そんな成利の視点から、早暁に来襲した光秀軍に対して、信長を護りつつ戦うプロセスが描かれて行く。特に、この短編の読ませどころは、信長の発言と心理の変化を、成利がどう受け止めたかの視点から描き込まれていくところにあると思う。
 タイトルにある首級とは信長の首である。切腹する信長を森成利が介錯し、首を落とすシーンでこの短編は終わる。
 成利の視点は「主は死ぬ間際であろうと、主で無ければならなかった。神をも恐れぬ天魔。それが主である」という思いにある。
 本能寺の変で信長の死に至る場面の記録史料はないだろう。ここに著者の想像力が羽ばたいている。読了印象として、著者は本能寺が最後に爆発したという考え方はとっていないように思える。つまり、本能寺炎上焼尽という見方のようだ。

< 宗室の器 > 博多の商人・島井宗室の立場  天野純希

 島井宗室は博多の豪商であり、茶人である。徳治郎茂勝と名乗っていた31歳のとき、博多が戦火で焼尽する。蓄えた金銀と大名に貸し付けた銭の証文を携えて避難するが、一人息子を見失う。妻の登喜はその後自殺。妻子を亡くした徳治郎茂勝は剃髪して宗室と名乗り、博多の復興に尽力し、博多のためにという思いが強い。茶人でもある宗室は、名物茶器「楢柴肩衝」を所持する。それは「天下三肩衝」のひとつと称される逸品である。茶の湯御政道という信長の方針の下で、信長の「名物狩り」の対象として目を付けられている。
 島井宗室が同じく博多の豪商神屋宗湛と共に、本能寺の茶会に招かれて本能寺に泊まっている。この年、天正10年正月25日には近江坂本城での光秀の茶会にも招かれている。この時、信長が天下の名物茶器を集めた正大な茶会を催すということのために、堺の津田宗及を介して誘われたのである。そして再び6月に、千宗易を介して信長の京での茶会に誘われたのだ。宗室の立場では、それは信長に「楢柴肩衝」を狙われていることを意味する。
 この短編は、信長により再び博多が戦の炎に焼かれることの阻止と「楢柴肩衝」を信長に召し上げられたくないという宗室の思いという観点から、宗室の心の葛藤と信長への対応を描き上げる。著者は、本能寺に泊まっていた宗室を信長が腹に脇差を突き立てる場にまで導いていく。さらに、その部屋の真下の地下蔵に大量の火薬が置かれていることを信長に語らせている。つまり、著者は本能寺爆発説で本能寺の変を描いている。
 「余の首が見つからねば、光秀に味方する者は現れまい。天下はこれから先も、乱れつづけよう」(p133)と信長に語らせる。
 この短編では、天正15年6月19日、博多箱崎浜に設けられた関白秀吉の茶席に宗湛と共に宗室が招かれる場面がつづく。このとき「天下三肩衝」は秀吉の掌中にあった。茶席で宗室は「楢柴が、喜んでおりますな」と語る立場になっている。そして、宗易と宗室の会話が書き込まれる。ここに宗室を通して、著者の思念が凝縮しているのではないかと思う。

< 水魚の心 >  徳川家康の立場  宮本昌孝

 著者は三河の熱田で人質として軟禁生活を送る松平竹千代7歳と信長の関わりから書き始め、家康と信長の関係の深まり具合、その進展を描き込んで行く。そして、信長から安土と京坂における遊興の旅を勧められた家康は、供廻りとして一騎当千の強者揃いだがわずか30人ほどと出かけて行く。6月2日の朝、家康が京い向かう途中で、在京中のはずの茶屋清延を伴って戻って来た先発の本多忠勝から、光秀の謀反と本能寺での信長の死を報される。この短編は、報せを受けた家康がどう行動したかをテーマとしている。
 酒井小五郎の忠言を受け入れ、一旦三河に生還してのち、軍勢を整えて信長の弔い合戦を起こすという方針を家康は選択する。家康に同行していた穴山梅雪が途中で家康とは別の道をとりたいという。家康は了解するが、これに絡む解釈が興味深い。
 河内国交野郡~山城国相楽郡~宇治田原~近江国甲賀郡南西部~伊賀国阿拝郡北部~加太越~伊勢国(関-亀山-白子浜)~三河大浜、という経路で家康一行は三河に生還する。家康に注進するため京を出た茶屋清延が用意した銀子と、家康が信長の伊賀攻めには参陣していず、三河生まれであるが服部嫡流家の血筋である服部半蔵を家臣としていたことが、大いに役立ったと著者は言う。直接の遺恨の少なさと血縁関係を使い、金で身の安全を買うことができたということだろう。
 三河への生還は成功したが、秀吉の大返しにより弔い合戦は先を越されてしまう。
 家康は生還するなり、当然のことながら徳川領の治安、国境を固めることを優先する。そのため弔い合戦の出陣が遅れる。
 末尾は、秀吉の使者として19日に石田三成が家康の許に訪れる場面である。三成は秀吉の書状を届けにきた。さらに秀吉を上様と呼び、書状に記されぬ上様のおことばを申し伝える」として、「君臣、水魚にあられた。この先も変わらぬよう、お頼み申す」と。
 これに対して、家康が三成に投げかけた返答が秀逸である。このシーンに「本能寺の変」の家康にとっての思考と戦略が表出されていると思う。
 この短編の枠を外れるが、読後印象をさらに飛躍させると、家康の弔い合戦への出陣は単なる演出だったかもしれない・・・本能寺の変を契機に、徳川領の治安固めと領域拡大による己の勢力増大をこそ第一優先にしたのではないかとさえ感じた。

< 幽斎の悪采 > 細川幽斎の立場  木下昌輝

 細川与一郎藤孝には異母兄・三淵大和守藤英がいる。足利家の血を引く名門・三淵家の惣領である。与一郎は細川家の養子となった。三淵藤英と与一郎は共に将軍家の家臣であり、義昭を擁立した。一方、明智十兵衛光秀は、流浪の中で与一郎が養う食客のひとりとなった時期があること、与一郎の口利きで将軍家の足軽となるという経緯がある。将軍義昭が越前浅倉家に流浪の身を庇護されている折、上洛の意志がない朝倉を見限る動きが起こる。織田信長に将軍義昭を支援し上洛を唆すための役目を与一郎の依頼を受け光秀が果たす。それがその後の光秀のめざましい出世の契機となる。
 この短編は与一郎の立場からみた本能寺の変であり、与一郎が本能寺の変の仕掛け人となっていくストーリー展開である。与一郎と光秀の間に重層されていく因縁関係が本能寺の変への動因なる。その根底に細川家の格式意識と細川家の存続を第一優先する思考があると読み取れる。
 将軍義昭の家臣である与一郎は、最後は将軍側の動向を信長に報せる立場をとる。将軍追放後にその功績が評価され、京の桂川以西の地を信長から宛がわれる。その折り、将軍家縁の細川姓を捨て、地名をとり長岡と改名する。そして、本能寺の変で信長が死ぬと、剃髪し、僧号の幽斎を名乗り、弔い合戦に出陣せず、戦から一歩引き下り信長を弔うという選択をするに至る。
 将軍義昭側の動向を信長に報せることになる理由は、三淵藤英と与一郎の間で、信長には勝てぬと見切り、家を残す手段としていずれかが織田家に与するという選択を相談した結果である。どちらが与するかを決めるのに賽子(さいころ)が使われたと著者は描き出す。その結果与一郎が与せざるをえなくなった。イカサマの賽子を悪采と称するそうである。タイトルにある悪采はここから来ていると思う。また、悪采は、与一郎が各武将に仕掛けていく意図的情報の投げかけ、つまりイカサマをするという行動とダブルミーニングになっているのではないかと推測した。
 因縁と遺恨がどのように重層化していくか、そのストーリーの展開が読ませどころである。与一郎の矜持が根底に蠢いていると感じる。


< 鷹、翔る >  斎藤内蔵助利光の立場   葉室 麟

 「天正10年(1582)6月1日夜半」の書き出しから始まり、『言経卿記』の記述にあるとして「日向守斎藤内蔵助 今度謀反随一也」を最後に引用する。「明智光秀の家臣である斎藤内蔵助こそ、<本能寺の変>を起こした随一の者であるというのだ。内蔵助は生涯の最後に、美濃斎藤の名を轟かせた」という文でしめくくる。
 この短編は、股肱の臣である斎藤内蔵助利光が永年、信長の誅殺を光秀に説いてきた人物だとして、なぜ彼が本能寺の変という謀反で随一の者となったのかを綴る。内蔵助が本能寺への道を歩む途中で回想する形をとり、信長に対し積年の美濃の恨みを晴らすという理由が存在したと解き明かしていく。
 美濃国を舞台とした権力闘争の凄惨な歴史があり、そこに信長、光秀、内蔵助に至る歴代の武将の確執関係の構図が浮かび上がっていく。
 斎藤家は美濃の国主土岐家の守護代の家柄である。応仁の乱の時代、兄の急死により、妙椿が僧籍のまま家督を継ぎ、守護が留守の美濃をよく治めた。妙椿は内蔵助の祖祖父の弟に当たる。内蔵助にとって目指すべき武将としての目標が斎藤妙椿の生き様だった。
 妙椿の死後、美濃斎藤家は同族争いをし、油売りの子である道三に乗っ取られる。道三は美濃斎藤家の正系の如く振る舞い、権勢を誇る。
 明智氏は土岐氏の支族であり、美濃の動乱のおり斎藤道三方につき、道三が没落すると義龍に攻められて、一家離散した。明智光秀が幕府奉公衆となっていた時期に、内蔵助が室町御所で光秀と面識を持つに至ったと描いている。
 信長は道三の娘を嫁にするが、龍興の代になり美濃を攻略する。美濃三人衆の一人稲葉一鉄の織田寝返りにより、美濃国を手中に入れる。稲葉一鉄の娘を妻とし、美濃で雌伏し時を待つ思いだった内蔵助は、天正8年(1580)に一鉄のもとを去り、光秀のもとに移る。丹波平定後に、1万石を与えられ筆頭家老の一人となる。内蔵助の夢は信長を討ち、昔の美濃を取り戻すことにあった。
 大凡で捉えると、人間関係の構図の主要部分はこういう関係だろうが、著者は内蔵助の回想としてその経緯を詳述していく。戦国期の美濃国の政権争いの状況が詳しくわかるという副産物がある。
 著者は、光秀が内蔵助にこんな語りかけをさせる。「内蔵助、そなたは恐ろしい男だな。」「そうではないか、本能寺攻めはそなたにまかせた。すると、水も漏らさぬ手配りで信長と信忠を討ち取ったではいか」と。
 内蔵助が信長誅殺に執心した理由は、もうひとつあるのではないかと、光秀に語らせている。
 この短編では、光秀自身と信長の関係における確執や思いの要因には触れてはいない。本能寺の変には、異なる理由を持つ人々がベクトルを一つにしたハイブリッド型の起爆力が働いていたのかもしれない。この短編は言経卿が書き残した一文に着目し、断片的史実の空隙を巧みに埋めて織りあげた内蔵助像を語るという意味で興味深い。
 

< 純白き鬼札 > 明智光秀の立場   冲方 丁

 光秀が愛宕山から下り、丹波亀山城に戻り出立を命じる。分かれ道の手前の野条で全軍を停止し勢揃いさせる。かつて「泥土にまみれてなお支障なきものを贖おう」と告げた主君信長の姿を己の内に昔のままに抱く光秀が、「我、かくもまばゆきを討つ、鬼札とならん」とする謀反の確信を得る。天正10年6月1日、光秀の心中に湧出する様々な思いを記したプロローグつきの短編である。
 そして、越前国・一乗谷にある朝倉家の殿舎の場面に時を遡行させて、ストーリーが始まる。光秀が浅倉家に出仕して10年、平安で安穏な年月、眠れる10年を過ごす。足利将軍義昭は朝倉家により一乗谷で庇護されるが、朝倉家に義昭を擁して上洛の意志が見えないため、越前を去る噂が出る。そんな折、幕臣の細川藤孝が光秀に織田信長への仲介を依頼する。それは光秀には信長に血縁が通じる側面があり仲立ちの可能性があるからだった。信長の正妻となった濃姫は従妹にあたる。光秀の叔母が斎藤道三に嫁ぎ、その娘が濃姫なのだ。
 光秀は将軍上洛支援の要請を記した御内書を携えた藤孝とともに、岐阜に赴く。ここから、光秀の人生は180度転換する。光秀は、改めて義昭の幕臣となる一方、織田家から朝倉家にいたときと同額、銀500貫をもって仕えるよう打診され、受ける。それは、光秀にとり、限りなき覚醒、血気横溢する年月の始まりである。信長に馬車馬の如くこき使われる始まりとなる。能力のある光秀は、またたく頭角を現していく。
 仲立ちとして光秀が信長に面謁したとき、鉄砲の目利きについて信長に問われる。光秀の返答に対し、最後に信長が宙に放り投げるようにして「泥土にまみれてなお支障なきものを贖おう」と発したのだ。キンカンと呼ばれながら信長の命を受け動き回り、途方もない「泥」を浴びる事にもなる。元亀元年4月、金ケ崎で秀吉とともに殿軍の一員となる。そして、元亀2年9月の比叡山焼き討ちである。光秀は信長に仕えてわずか3年半で一国一城の主となる。またたくまに10年が過ぎる。それは光秀にとり苦しくともやり甲斐のある10年である。
 だが、光秀の思いと信長の思考及び戦略の間に齟齬が出始じめる。それが「本能寺の変」につながっていく要因なのだろう。後半では、光秀が想定する信長の天下布武の計画とは異なる信長の展望、矜持を持つ光秀に憤りを感じさせる信長の命令などへと進展していく。
 織田家中で出世頭と名高い光秀が、信長に折檻されたということ、信長による光秀折檻に立ち至るプロセスの解釈がこの短編の読ませどころであると思う。著者の想像力を思う存分羽ばたかせた解釈が生み出す状況展開である。通説とは大きくことなり、実に興味深い。信長が己の生き様を見切った上で、国の将来を思考しているという観点がそこにある。
 この展開で信長が光秀に告げている言葉の一端をご紹介しよう。一つは、光秀を織田信雄の補佐にするつもりであること。もう一つは、「一乗谷の平和に住まっていた頃の貴様が本来の貴様だ。それを、わしが変えてしまった。」「もう貴様には戦はさせぬ。これ以上、貴様のみに血と泥をあびさせはせぬ。もとの貴様に戻り、その英才を子孫安寧に用いよ」(p317)である。それに対し、光秀が決して口にしてはならぬことを口走ったと書き込んでいく。信長の時代観と光秀の時代観に乖離が始まっていたのだろうか。実に興味深い解釈である。断片的事実の間に語られていない空隙が大きく広がる故のおもしろさである。
 愛宕山で戦勝祈願と連歌の会を光秀は行っている。光秀が何度かくじを引き、最後に引いたくじが真っ白な紙だったと著者は記す。タイトルの「純白き」はこの何も書かれぬ白きくじをさすのだろう。そして、光秀は「我に叛意あり」という鬼札を引いたのだ。
 光秀の生き様の変転が描かれ、そこに著者独自の解釈が盛り込まれていて、読み応えがある。

 ご一読ありがとうございます。

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本書に関連した事項をネット検索した。一覧にしておきたい。
本能寺  :ウィキペディア
本能寺跡  :「京都観光Navi」
織田信長の足跡を訪ねて  :「e-KYOTO」
『本能寺の変』を調査する  山本雅和氏 第204回京都市考古資料館文化財講座
織田勝長  :ウィキペディア
織田信忠の兄弟  :「天下侍魂 -将を語る-」
織田氏    :「戦国大名探究」
明智氏    :「戦国大名探究」
美濃明智氏一族の系譜  :「異聞 歴史館」(扶桑家系研究所)
土岐氏    :「戦国大名探究」
本能寺の変:土岐氏とは何だ!:”本能寺の変「明智憲三郎的世界 天下布文!」”
美濃斎藤氏  :「戦国大名探究」
森成利  :ウィキペディア
森長氏  :ウィキペディア
森長隆  :ウィキペディア

【茶道史】茶道御政道~茶道は何故政治に利用されたのか~
  :「習心帰大道《都流茶道教室 月桑庵》in 池袋」
島井宗室  :「コトバンク」
神屋宗湛  :「コトバンク」
楢柴肩衝  :ウィキペディア
大日本古記録 言経卿記五 :「東京大学史料編纂所」

「本能寺の変」真相を明智光秀の子孫が解説 「日本中が秀吉に騙されている」
   :「livedoor NEWS」
“明智光秀”子孫が語る「本能寺の変」(1)信長による家康討ちが発端
   :「Asagei plus」


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以下の「決戦!」シリーズの読後印象もお読みいただけるとうれしいです。

『決戦! 川中島』 冲方・佐藤・吉川・矢野・乾・木下・宮本 講談社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社
『決戦! 関ヶ原』 伊東・吉川・天野・上田・矢野・冲方・葉室  講談社