「早めに入ってWi-Fiするのが得なんだけど」
団体客が一斉になだれ込んで来た。そのせいかウエイターは大急ぎでスープの器を運んで来た。すべての指が器の中に入っている。一口飲むとそれはすっかり冷めていた。髪の毛が一本浮かんでいるのが見えた。自分のものだろうか。すくい取ってみるとそれはとても長かった。
三十センチ。僕のとは違うね。
手の平で眺めている内にそれは黒から銀色に変わり始めた。震えながら、縮んだ。これは一本ではなく、一匹だ!
意図的なものか、偶然かはわからない。とにかく、彼らは団体客を優先的に扱ったのではなかったか。突然、それは機敏になって手の平から飛び出した。待て! 追いかけて、テーブルを離れた。団体客のキャリーの間を縫って逃げて行く、銀の虫を追って厨房に入った。
「捕まえて!」
中は会議中だった。ちっ! 男はペンを回しながら舌を打った。
「また出たか」
「踏むんだ!」
テーブルの脚と男たちの脚の間を縫って、虫は時に縮み、時に消えながら、最後は料理長の手によって捕獲された。
「クレームは直接、上階の社長室へお願いします」
銀の虫を手に取って、エレベーターに乗った。
社長室のドアをノックする。
「こんなものが、出たんですが」
秘書はすぐに社長に電話を入れ、先客との会話に戻った。部屋の隅では、老人が金槌を手に物作りに没頭していた。社長を待つ間、部屋の中を観察した。寝そべるには絨毯は深すぎて、少し気が引けた。本棚には世界のメルヘン全集が並んでいて、この会社のルーツが窺える。みんな、人を楽しませることに必死だ。ちょうど手の届くところにあった本の一冊を適当に開いて読んでいるとドアが開いて社長が入って来た。
「お呼びですか?」
ここでは社長よりも秘書の方が偉いらしい。
僕はポケットに大事に保管しておいた虫を取り出して見せた。手の平に載せて見るとそれは長いスカーフだった。
「今はこんなに大きくなったけど、元は虫なんですよ」
「ふーん」
社長はどこか他人事のように薄い関心を示しただけだった。謝罪の言葉など何一つもなかった。ふーん……。そうかい。それだけかい。
しばらくすると社長室の中は、見学の子供たちや外国人たちであふれ始めた。待つ間にも随分と疲れたし、人の多さにも嫌気がさして来た。
もういいや……。
(こんな会社やめてやる)
エレベーターを降りながら決意を固めていた。
一階では、更に団体客の数が増していた。
表に出たところで、どこにもまだ就職などしていなかったことを思い出して、はっとした。けれども、どこか清々しい気持ちにもなった。僕はポケットに両手を突っ込んで、見知らぬ街を歩き始めた。
狭いところを上手く通れないので、街頭に立って猫にアンケートを試みた。
「最も狭いところはどこでしたか?」
足早な猫に交じって、足を止める猫もいた。
彼らの答えはあまり素直ではなかった。ヒントになるようなものは得られなかった。総じて、猫の答え方は、ぶっきらぼうだった。
忙しそうに通り過ぎる猫、迷惑そうに大回りして行く猫、すぐ近くまで寄って来たと思ったら、突然背中を向けて猛ダッシュして行く猫。最後の回答は何だったのか……。もう思い出せないほど、親切な猫から遠ざかった。冬支度にでも入ってしまったというように、すっかり冷たいモードに入ってしまった。
「よろしかったら、アンケートに……」
顔色をうかがって声をかける。細身の、少し柄の良さそうなのが、近づいて来る。久しぶりに、絡むことができるかもしれない。猫は、下から睨みつけるように、こちらを見た。
「猫の手は余ってなんかないよ!」
やはり駄目だった。冷たいモードはそう簡単に抜け出せるものではなかった。少しの言葉を拾えていた頃が、懐かしい。ファイルをもう一度、見返してみる。大した言葉があるわけではなかったけれど、今を生きる猫の声に趣を感じていた。
「何かお困りのようですね」
驚いた。よほど困っているように、見えたのかもしれない。
「私が手を貸してあげてもいいよ」
願ってもない話だった。彼女はかつては人と一緒に暮らしていたこともある、年老いた猫だった。色々あって、今は独りで暮らしているということだ。猫のことを猫に聞いてもらえるなんて、心強い。頼もしい援軍を得て、猫の回答は少しずつ戻って来た。
「ちょっと、そこの猫、止まりなさい」
「……」
「今までで最も狭かったところはどこですか?」
「それは私が生まれる前に住んでいたところだよ。多分、その名残かな。今でも私は狭い場所を好んで通るんだ」
問う者によって、答え方もまるで変わってしまうことが驚きだった。僕だけだった時とは、何か空気が違っている。
「狭いと思ったことは、一度だってなかったよ。僕はただ自分の愛する場所に落ち着いているだけさ」
「狭き門って何? 自分が単に下手くそなだけじゃない?」
猫はぎょろりと向いて言った。言葉が胸に刺さる。
アンケートは深夜になっても続いた。長老の背に控えて、まるで僕がアシスタントのようになっていた。メインストリートを遊び疲れた猫たちが通り過ぎる。
「ちょっと君」