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ジェイエスピー社員が綴る日替わりブログ

正確な表現

2014-03-17 08:35:11 | 日記
 オリンピックで盛んに使われていて何となく違和感があり、その後どこかで聞くたびに気になっている言葉がある。「悲願」という言葉だ。ネットで調べてみると「どんなことがあってもなしとげようと思う悲壮な願い」(大辞林)とある。「悲壮」な思いなどと言われてしまうと違和感はさらに増す。

 あの人もこの人も「悲願のメダル」が取れたり取れなかったりと報道された。この前取れなかったから今回は絶対メダルを取ってやるぜわっはっはと豪快に笑い飛ばしていた選手ばかりだったという話しは聞いていないから、まあ悲壮な決意だったと思われてしまっても仕方がないが、みなさんそんなに悲しくなるぐらいメダルメダルとメダルを追い求めていたのだろうか。マスコミのみなさんに喧嘩を売るつもりは全くない。が、本当にその選手の「悲願」だったのかどうか確認して(裏を取って)使っているのかどうか極めて怪しい。

 報道の仕方はさておき、そもそも悲願という言葉の作りがちょっと重い。それでもトップアスリートや各界のトップを走っている人達に使われている分には彼らのまとっている雰囲気の中に重くても跳ね返すパワーがあるからまあ違和感程度で話しは済む。ところが、いじめられて来た子供の悲願などと言われてしまうと同じ悲願でもずっしり重く暗い。その子の願いが例えば親に禁止されているポテトチップの食べ放題などというたわい無いものであったとしても、悲願と言われてしまうと重すぎて押しつぶされる(そんな話しをどこかで聞いたわけではない)。「ずっと願って来た思い」ぐらいの意味で爽やかに表現する日本語は他に無いのだろうか。

 ちなみに「悲願」を英語で何というのか調べてみたら「an earnest wish」と言うらしい。全く悲壮な感じが無い。悲願と比べるとかなり長いので新聞記事の見出し向きではないかもしれないけれど、違和感は無い。「悲願のメダル」だったと報道するのと「自分にできる最高の演技がしたいと心から願っていた」と報道するのでは意味は大きく違う。願っていた最高の演技ができ、それを審判団が認めてくれてはじめてメダルがついて来る、というメダルに到達するまでのリアルな段階を今回のソチでは思い知った。選手たちは十分にそのことを理解していたように思う。メダルは欲しい。しかし、メダルが目標なのではなく以前の自分を超えた最高の自分をその場所で表現できれば、と願って試合に臨む。最高の自分が世界最高であると認められれば金メダルを手に入れることができる。

 クリミアの問題で何となく輝きを放てなかったパラリンピックも閉会式を終え、ソチもたくさんのwishを思い出しながら静かに春を迎えるだろう。多少きな臭いかもしれないが。

 日本人は時代の変化に合わせて新しい言葉を巧みに生み出して来た国民だという。最近もどんどん新語が出来てきているらしい。にもかかわらず、旧来の語彙が先行して、その言葉があるから定形表現として使ってしまい、その結果、真実を見失い、時代の瞬間を切り取ることも出来ないまま世界に取り残されてしまっている状況もあるような気がする。自分の感覚に合った言葉を選び、正しく伝える努力がいる。(三)


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株式会社ジェイエスピー
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