もう少し、デザインお話を続けたい
今朝は、
生き方についてのデザイン。
デザインは、
カオスが、あるいは様々なイメージが
不規則に流れ、あるいは浮遊、点在する
頭のなかの空間から、
意識的、あるいは無意識に、それらを取捨し、
それらをある基準で、カタチ化したもの、
というのが、私なりの定義である。
その「基準」とは、
「いいあんばい」の「あんばい」
(塩梅・按排・按配)、あるいは「良い加減」。
それも自分にとって。
そして自分のことをわかってくれる人にとって。
と、いったものでは、というのが、
これまた私のかって考え。
今書いている、この文章も、
これまで1日と欠かさず書いてきたことも、
そして、これからも書き続けるものも、また然り。
自分にとって、良しとする考え、思いを、
自分のことをわかってくれる人にむかって
しこしこと、デザインしているのだ。
(4)デザインには機能性が付帯する。
否、正しくは機能性を付加するところに、
デザインの役割が存在する、といった方がいいか。
欲望には、それぞれ欲する対象物がある。
その欲するものを具現するための
戦術、手段、手立て、方法、ツールがある。
とすれば、デザインには無意味なものが、
存在するはずはなく、よって機能性を持つ、
というのが、私なりの解だ。
正解とは言わぬ、が他者に誤解とはいえぬ。
人はそれぞれ、それぞれのデザイアーを抱き
人、それぞれ、それぞれのデザインを
織りなしているのであるから。
人はいざ知らず、
私には、私にとって、私だけのデザインだ、とは、
とても言えない。言い切るほど強い人間ではない。
だから、どこかで心寂しさを埋めてくれる、
支える人、共感者を求めている。
その自分のことをわかってくれる人に向かって
デザインを道具(戦術、手段、手立て、方法、ツール)
として、しこしこと、デザインしているのだ。
生きることとは、自分の生き方のデザインではないか。
書きながら、ふとそう思い、しばしキーボードから
指を離し、思考を頭の中においた。
この思いつきに、わずかにときめく。
その心に対し、私の頭の中は、止めどもなく
ゴミが流れているだけであった。
今朝は、
生き方についてのデザイン。
デザインは、
カオスが、あるいは様々なイメージが
不規則に流れ、あるいは浮遊、点在する
頭のなかの空間から、
意識的、あるいは無意識に、それらを取捨し、
それらをある基準で、カタチ化したもの、
というのが、私なりの定義である。
その「基準」とは、
「いいあんばい」の「あんばい」
(塩梅・按排・按配)、あるいは「良い加減」。
それも自分にとって。
そして自分のことをわかってくれる人にとって。
と、いったものでは、というのが、
これまた私のかって考え。
今書いている、この文章も、
これまで1日と欠かさず書いてきたことも、
そして、これからも書き続けるものも、また然り。
自分にとって、良しとする考え、思いを、
自分のことをわかってくれる人にむかって
しこしこと、デザインしているのだ。
(4)デザインには機能性が付帯する。
否、正しくは機能性を付加するところに、
デザインの役割が存在する、といった方がいいか。
欲望には、それぞれ欲する対象物がある。
その欲するものを具現するための
戦術、手段、手立て、方法、ツールがある。
とすれば、デザインには無意味なものが、
存在するはずはなく、よって機能性を持つ、
というのが、私なりの解だ。
正解とは言わぬ、が他者に誤解とはいえぬ。
人はそれぞれ、それぞれのデザイアーを抱き
人、それぞれ、それぞれのデザインを
織りなしているのであるから。
人はいざ知らず、
私には、私にとって、私だけのデザインだ、とは、
とても言えない。言い切るほど強い人間ではない。
だから、どこかで心寂しさを埋めてくれる、
支える人、共感者を求めている。
その自分のことをわかってくれる人に向かって
デザインを道具(戦術、手段、手立て、方法、ツール)
として、しこしこと、デザインしているのだ。
生きることとは、自分の生き方のデザインではないか。
書きながら、ふとそう思い、しばしキーボードから
指を離し、思考を頭の中においた。
この思いつきに、わずかにときめく。
その心に対し、私の頭の中は、止めどもなく
ゴミが流れているだけであった。