「仏教」も、輸入されたものである。
仏教がかってに海を超えて、のこのこやってきたのではない。
誰か人が運んできたものとである。
漁師などの可能性もあるから、それができるのは、
まず体制である、と考えて良い。
そのために派遣された人が持ち帰ったものが、
かりに全容であったとしても、
体制は仏教の本質や全容を輸入する気はあるまい。
考えるに、それらの中から自分たちの体制にとって
都合の悪いよい部分を切り捨て、都合のよい所を
残し、切り貼りしたものを、和製仏教として
普及させたものと、考えてよい。
当然だ。
私たちが、道を歩いていて紙くずは見向きもせず、
お札なら拾うのと同じである。
しかし、あとになって体制から流れた切り貼り経典にものに
飽きたらずもっと勉強してみようとか、
さらに奥義を深めたいとか、切り貼り、つじつまなどに
疑義を抱いた者が、禁を破り自ら中国や韓国に渡り、
初めて仏教の実態を知ることになった。
以降、宗教の世界も体制派とそうでない派と、
大きくはふたつの流れができたことは、
決して不自然なことではない。
このことが教訓となり体制をして、
鎖国へ進む引き金の一つにとなった。
したがって、鎖国とは、私たちが学校の歴史学んだ様な、
外国との全面的国交断絶ではない。
鎖国の内実は体制以外の諸団体、および個人に対する
諸外国との交流禁止である。
ここで横道にそれるが、「鎖国」のもつ意図について、
少し触れておきたい。
結論からいうと、
鎖国は体制に都合の悪い物なり思想は断ち、
体制に都合のよいものは通す、というフイルター機能
所謂、今でいう情報コントロールセンターの役割である。
それにもう一つ。
海外取引の利権独占。甘い汁は体制だけが、という考え。
これは、江戸幕府のあり方に、典型的に表れている。
言いたいことは、
こうしたことは現在にも随所に見られる、
ということ。これである。
私たちは、知らずして情報統制されている、ということ。
これを言いたいのである。