goo blog サービス終了のお知らせ 

経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

トンチンカン

2015年02月25日 | Weblog
とんちんかん


鍛冶屋の相槌(あいづち)の音は、
槌の音が交互にそろっています。
それが、交互に打たれず、
そろわなくなったことから、

「とんちんかん」という言葉ができたとか。

ここから、物事のつじつまが合わないこと。
行き違ったりちぐはぐになったりすること。
また、そのさまを、「とんちんかん」といいます。


たとえば。
米が売れないのはあの大きな米屋のせいだ、
という時代がありました。

食パンが売れ始めたらパンに食われた、
と言った時代がありました。


ですが今や、いやその頃も
ラーメン屋も喫茶店やお弁当屋、
外食・・・・やがて
それにコンビニもくわわりました。

ライバルは、どんどん増えます。


それにお店だけではなく、
旅行、ダイエットインストラクターも、
米が売れないライバルはいくらでもあります。


売れないのは、○○のせい。
この「せい」は、理由ではありません。

理由を、見つけようとせず、直視せず、
他に転換する便利な言葉が「せい」なのです。


売れない理由は、
消費者が、あなたのお店を選択しないことにある
お客にならない結果、「売れなかった」。

「売れなかった」、このことを
「(米が)売れない」と、微妙にぼかしていう。

こうしたことで、本当の理由を転嫁し、
さらにぼかすことで
対策を講じることから逃避する。

とんちんかん、とんちんかん。

こうしたことで、自分の気分は一時的に
楽になるかも知れませんが
経営は、絶対に楽になることはありません。

とんちんかんからは、なにも生まれない。



どっちっち

2015年02月24日 | Weblog
喜怒哀楽による感情の振幅は、
心の準備があればあるほど減じ
意外性があるほど増幅する。


畢竟
その期待を高い方に裏切られることで、
人は感動を覚え、感激する。


その期待を低い方に裏切られることで
人は落胆し、ときとして怒る。

その期待が、期待通りで、振幅が起きなければ
人は関心を示さず、無視する。


実施した売り出しは、上の3つのどれに当てはまるか。
そのイベントは、上の3つのどれに当てはまるか。
「超感動!の大感謝祭」と銘打った
売り出しは上の3つのどれに当てはまるか。



人は期待(予定稿)を高い方に裏切られて感激、
その低い方に裏切られて、落胆するのである。



しかし、売り手側は、
しばし、いやほとんど消費者に高い期待を抱かせ、
低い方に裏切理、消費者を落胆におとしめる。

それで、「今度の企画は当たらなかった」。
とは、なんと脳天気。


人をクレーンで、高く持ち上げておいて、
そこから落っこちさせて、
「今度の企画は当たらなかった」はないだろう。


オオカミと少年を体感した消費者は、
こぞって背を向ける。


なんということはない。
高いコスト、手間暇をかけて、
消費者に不評を買ってもらっているのだ。


プロは、常に期待を裏切る。
そのプロの中で、その期待を
常に高い方に裏切る人が真のプロ。
低い方に裏切る人は、詐欺師。

その詐欺師でも、
相手にその裏切りを気づかせない人がプロの詐欺師。


大きな期待を抱かせ、現実は実績が小さい
そうした経営者は、失格者。

小さな実績を大きく見せれば、粉飾。


歪む事実

2015年02月23日 | Weblog
歴史は、その後の者によって微妙に歪められる、

ということも、あって当然。


とりわけ、信長が短気であったとする説は、

私が今更検証するまでもなく、後世の俗説、作文である。


徳川の時代に生きる者が、どうして徳川の悪口を記せようか。

ヨーロッパ中世期時代の肖像画に描かれている人物は、皆美男美女である。

当然である。

生活の面倒を見てもらっていたお抱え画家達が、

そのまんまを描くことは生活基盤を失うことになったろうから。


家康をあがめるには、信長を遠回しに落し、

家康を婉曲によいしょした苦心の表現といっていい。



否、そもそも現象的なみて、短気とか長気とか判断し、

それを全体的かつ固定的な「性格のせい」である、

と決めつける見方こそ、間違いである。


それは短期戦を用いる武将を、短気。長期戦をなす武将を

気が長い、とレッテルを貼るに等しい。


性格如何に関わらず信長、いや彼らは、短気も、中気も、長気も、

時と場合で、使い分け、戦略の具現のための戦術として使う。

それでないと、生死をかけた戦に望めるわけはないのだ。


当時の武将だけではない。

だれしも性格は、固定的なものとせず、

どこかで意識し、あるいは無意識に使い分けをしている、

といったところがある。


子供の頃には、「うつけもの」を装い、

成人してからも奇行で知られる信長だが、

それはすべて戦略に基づく、科学的計算性に戦術の表れであった。


それは先に述べた桶狭間の戦い、武田の崩壊の切っ掛けとなった

長篠の戦いなどに、明確に見ることができる。


当時としては、あるときは短気に、あるときは気長に、

あるときは不遜に、あるときは謙虚に、大願成就のために

自在に使い分けた信長は、ことの是非、好き嫌いは別にして、

まさに戦略家の典型といえる。



いと おかしげ

2015年02月22日 | Weblog
「いと おかしげ」


創造には目的(意図)がある。

朝の出勤の近道となる公園の広場に
1円玉、5円玉、10円玉、
500玉、千円札、2千円札、5千円札
1万円札が無数。そして落ち葉、鼻紙、ゴミ、端切れ、
おがくず、宝くじ、おみくじ、木片、数珠玉、花、鎖、
爪切り、輪ゴム、・・・
とにかくいろいろ散乱している、とします。

どれを拾います?と問われたら、頭の中で考えます。
どれを拾うかは、「選択」。
これには意図が不可欠です。

洗濯するにも意図があります。

ところで、公園を通りかかった殆どの人は
1万円札を拾い出した。
猫ババの意図があるからかもですね。

Sさんは、どうせ自分のものにならないから、
時間の無駄と考え、遅刻したら出世の妨げと考え
迷いながらも、素通り。これも意図ありですね。

Gさんは、宝くじを手にしました。
当たったら大もうけ。宝くじなら、猫ババ許されるかも、
と考えてのこと。意図ありありです。

Yさんは、なんと木片を手にし、鞄にいれましました。

なんでやろ。
訊かねばわかりませんが、
やはり意図あってのこと、ということは
わかりますよね。


物事を考え、なすには何気ないようでも
意図がある。
いや、意図があってこそ想像したり、イメージしたり
ものや考えが創造できるのです。

ここにある机は、様々な部品で創られています。

部品があったから机が創られたのではない。
机を創ろうという意図があって、
その材料が集められたのです。

意図を人生の目的に置き換えたら、
人生の目的を決めないで過ごすことの空しさがわかります。

意図を経営の目的に置き換えたら、
経営の目的を知らされず働いている
パートさんの虚しさがわかるはずです。
その虚しさが、経営に響いてくる。


目的、意図がなければすべてが虚し。
経営も、いとおかしげになる。


創造の制約

2015年02月21日 | Weblog
消費者から見てマイナスを減じ、プラスを加える。
といったようにプラスとマイナスの両者を活かし、
新たな物を創生することを創造物、という。

もし創造物が、そうではないとしたら、
人類は時が経つごとに、滅亡に向かうことになり、
この今に世を謳歌できるはずがないのだ。

その意味で、この世は想像のたまものと言ったら、
寛容力のない神なら、怒るだろうか。


ところで、創造性には
次のような条件、制約がある、と考えてる。

それは、「 創造には制約がある」、
そして、その制約の範囲での作業であること。

このことは前に触れたが、
ルールのないゲームやスポーツはありえない。成り立たない。
あっても、なりたっても、おもしろくもおかしくもない。

第一どうしたらいいかわからなくなる。

赤、青、黄の信号機に、なんのルールも
付いていなかったら、どうなるのだ。

この世は、制約がなかったら存在できない。
命あるものは死ぬ。生きている人から見たら、
この制約こそ、取り除きたいものであろう。

晋の始皇帝もそう思った。
彼は、自分だけは得家員に生き続けたいと
思った。それで晋は滅びた。
もちろん、当人も。
なんと皮肉なことではないか。

そもそも始まりだけがあり、終点はないとしたら、
地球は生命体であふれ、食べて胃に入った動植物が
胃の中で生き続ける、
といったとんでもないことがおきる。
3度のs食事の度に、胃袋は膨らみ
やがて破裂する。

ものすごい痛みであろうが、
それでもその胃の持ち主は、死ねない。
自殺をしても死ねない。

そのうち地峡は生命体であふれ、
その重みで地球は落下、破壊するが
それでも、生き続けることになる。

始まりがあれば、終わりある。
終わりを想定して、今を生きる。

こう考えれば
制約があるから生きられる。創造ができる。

制約こそ、我が命、ともいえる。


隠匿と開示

2015年02月20日 | Weblog
30余年ほど前。
異業種交流会が通産の肝いりで各県にできた。
タケノコのように生まれ
タケノコのように消えた。
そして、やがて廃った。

なぜか、

当時、彼らの指導役、カタライザーをしていた私は考えた。

自分の情報は隠し、相手にはそれを求める。
つまり、自分は覆面で、相手には素面を求める。

名称を変えたせいではない。
      これが工業倶楽部として、発展的解消され、
そこのところが概ねわかってきたようだ。

概ねと書いたのは、以前消えていく会もあるからだ。
それを調べると、やはり覆面会員が多い会である。

そもそも覆面をして、
「私を信用しなさいよ」。
「私の言うことは正しいよ」。

といっても無理だ。

なぜなら信用され、正しいことを言う人が、
通常、覆面をするはずがないのだから。

隠す人ほど、うさんくさい。
隠す企業の事件発生率は高い、

では、これはどうだろう。

       「おまえ、あほか!」

これは、最近見た映画のセリフの一部。
若い女性が、恋人の彼に言っている。
怒っているのではない。その逆。

こうしたことが判るのは、
洞察力があるからではない。
映画を、私が見たからである。

音だけではどうか。
文字だけではどうか。
このシーンだけを見ている人はどうか。

言葉は、怖いのである。
ニックネームだけといった、
悪口雑言のカキコミも、
美辞麗句のカキコミも、
文字の羅列だけでは、同じことである。

煎じ詰めれば、
    隠すは、他者に不安、胡散臭さを、
開示、繋がりは、安心と信頼を
     与えることになる。
    
     畢竟
隠すは、孤立、滅びの戦略。
開示、繋がりは、繁栄の戦略。08.6.16

畢竟
隠すは、孤立、滅びの戦略。
開示、繋がりは、繁栄の戦略。


組織の閉じこもり

2015年02月18日 | Weblog


内部体制固め、情報の不開示といったことで、
対応を組織内でとどめ置くと、
逆に外部との情報乖離が開き、
同じ問題が繰り返されるだけでなく、
問題が大きくなる、といったことはしばしば発生する。

考えればわかることである。
100=10,逆の10=100、といった状況はあり得ないから
必然的に、いずれにしろ 55=55に落ち着く。

その場合、
最初に左辺と右辺の数字の大きさが違うほど、
つまり、落差が大きいほど、その勢いは激しい。
当然だ。

正しい対応は、
最初から、左辺と右辺の差が起きないようにすることである。

具体的には、
外部との打ち合わせを密にする、
外部との情報交換を随時やる、
外部との交流を積極的に行う、
外部に社内の温度を合わせる、

こうしたことで、
外部の風を入れて風通しを良くすることが、
効果的な対策となる。


良く、「社内の風通しが悪い」といった言い方がされるが、
より大事、優先すべきは社外との風通しである。
しかし「社外との風通しが悪い」といった言葉を、
これまで聞いたことがない。

密閉度の高い組織は外部から孤立し、やがて内部崩壊する。
そうした事例は枚挙に暇がないのに、あまりにも外部との「差」
に関して、関心がないことに驚かされる。


東北の大震災以来、東電の隠匿性が、しばしば話題になるが、
これは報道されたから大きな問題視されているわけで、
実に多くの企業が、大なり小なり、内部可愛さ、
己可愛さゆえの隠匿性を強めることで、
外部との落差を自ら構築し、それでもって、
やがての崩壊を予約している。

これを私は、「組織の閉じこもり」と呼んでいる。
この閉じこもりにより、社会システムから分断された状態は、
数珠のヒモが切れたことをイメージすればわかりやすい。

組織の本質は、他との関わり。したがって情報の公開、共有
が本来であり、それを隠匿することは、
自ら社会的組織の一員から切り離される暴挙であることを、
そののちのち気がつくことになるだろう。



息続けている理由

2015年02月17日 | Weblog
長期間、少しずつ考え続けている
「テーマ」がいくつかある。

それを毎日、このブログに書き出しているのだが、
元々は、ちょっとした断片、ゴミみたいなものである。

頭の中で、おびただしいゴミが浮遊している。
その浮遊物は、頭の中で不連続的に無方向性で、
流れ、とどまり、ながれている。


不思議なことだが、その頭の中の浮遊物を、見ているのは
頭の外にある私の2つの目なのだ。


それら浮遊物の中から、目にとまったもの、
それを少しずつ形化することになるのだが、
ここからは、頭と手の共同作業になる。

ちなみに、この形になる前の、浮遊している段階を、
「イメージ」というのではないか、と
なんの根拠もないし、自信もないが
そう思って、この話を続ける。

以下、
「イメージの具体化と創造性」と題して、
自分の頭の中の「イメージに関するイメージ」
を形化する過程について、メモ風に書き、述べてみたい。


ちなみにこうした場合、私の思考の主な道具は、
頭とパソコン、そしてその画面に表示される文字である。


【1】イメージの概念=心の中に浮かべる像
(広辞苑)
(1)果てしない広がりであって、
捉えどころのない空間のひとこま、一部

(2)本来は、形なく色もなくそして価値なく、
そしてひとコマ。

(3)コマとして捉えるためには自我(磁石)に
よる枠どり、色づけが不可欠

たとえば楽しいイメージを描きたければ磁石を
「楽しい」にセットする。
そうすれば、頭の中に過去の楽しい経験が
集まってきてこのドッドによりさまざまな流動的な絵が描かれ、
次第に鮮明化してくるのが見えるであろう。


まだまだ、(4)、(5)と(10)まで続くが、
ゴミの羅列では、おもしろくない。
ここで一休みし、余話を。

私は、ほぼ30年間、
そして最近は、ほぼ毎日ではなく、
毎日、多い時には8-9のブログを書いていた。

それぞれ命題を分けて、これもほぼ隔日ごとに
更新し続けていいたが、ここ2年、全部同じ文章。

時間がないというより、それだけ書く材料が
減じたということだろう。

毎日のように全国を旅していた時代は、
書いても書いてもつきないぐらい気づきが溢れでてきた。
が、行動範囲が狭くなってからは・・・・・そうはいかない。
3つ以外は、殆ど更新していない。


さて、本題へ戻す。
そうしたブログの文章は、
頭の中の浮遊物を捕らえてメモし、
その断片が、上に述べて思考過程で
文章になるのだが、その創成の過程こそ
至福の時間である。

至福だからこそ、毎日続いているのだ。
メルマガも然り。手書き時代を含めると
30余年、毎月欠かさず続けてきたが、1昨年やめた。
動機は、パソコンの故障でIDを消滅したからだ。
で、それをフエイスに転じた。。

呼吸、息も生まれてこの方、続いている。

生きるは息続ける。それも生きること。
楽しいから、続いている。

すべからく続くことは楽しいことだ、
と私はかってな解釈をつけている。



両面思考

2015年02月16日 | Weblog



常に「利用者の身になって考える」
というのが、本来の経営判断である。


それをいつの間にか、も部の都合を充足するために
内から外を見る習慣で。脳の回線が、
そうなってしまったということだ。

内から外を見る限り、外からの自分、自企業は全く見えない。

繰り返す。
上空か、外からしか自分の全容は見えないのだ。

だから、自分の身を外におく。上空、つまり俯瞰的に見る
この2つが自然に行える脳の回線を再構築することになる。



事業というのはお客様に合わせて、
喜んでいただくことをなし、喜んでいただく、
そのお駄賃として糧を得て、生き続ける。

これが事業の本質だ。
それを円滑に行うために、マネジメント担当として経営者が、
そしてその思いを実践実行するものとして「組織」がある。

これが経営である。

だから売上不振、経営不振といったことがあったとしたら

1-お客様に合わせていないか
2-喜んでいただいていないか

この2点を疑い、内部を糺して見ることだ。
これをなすことで、経営者はお駄賃として糧を得て
生きることができるのである。

上の2つをなすには、経営者が、仕事ではなく、
1に、日常という生活空間で過ごし、体感すること。
2にそこで消費者の時間を増やすこと

で、身をもって身につける以外にない

ただ、生まれたときから経営をやっているわけではないので、
まず内から外に出る。
そして事業を営む以前の日常空間に身をおき、
以前の消費者としての脳力開発の回線に修復する。

それが無意識にできるよう、意識してやる。

それを時間と金かけて、売上がたりない、利益が出ない。高コストだ、
と、内にいて内向きのことを考え、発案し、それらを組織に
いけ、いけどんどん、とやっている。

それは的外れだから、あたることは希有である。

当たったところは、命を落とし今は生きていない。
幸い外れる確率が高いから、多くの企業は救われ、
ここまで死なずにすんでいる。
 

こうした片面思考、片輪の経営でここまでやってこれたのは、
実に幸運に恵まれている証といえる。
だから、本来の正道、すなわち消費者の側面を加え、
両面思考、両輪経営をやったら、どれだけ大きく伸びるか。

と、私は胸をわくわくしているのである。



客体験こそ

2015年02月15日 | Weblog


理容師の皆さん方の学会がある。
その学会で、1年間顧問講師をしたことがある。
その成果を、長崎の学会で参加者の
理容師の皆さん方に、成果報告していただく、

いわゆる1,000円床屋が出現、
理容業界がゆれにゆれた。その頃の話である。

. 利用者の選択、判断の問題を、
「利用者の身になって考える」
と、いくらと考えても言っても、なんの解決もしない。

そんなことは言っても言わなくてもいいから
自分が消費者、お客、利用者、クライアントになる。
その経験を踏まえ、それで体感したことを
自分の経営に置き換えて、活かす。

それ以外がない。

お客になってお客の気持ちを体感する。
実は、実際にやられた方ならわかるが、
これがきわめて難しいのである。


そうした話を聞いてその後、このことを実践された方は、
私が知る限り長崎のSさんのグループ、5-6人だけ。

なぜか。なぜ難しいのか。

それは作り手、売り手の経験、経営者、店主の経験、思考、
こうしたものが脳を占めていて、消費者体験や
消費者の思いなどの進入を邪魔するからである。
経営する側が、消費者になりきると言うことは
実際、きわめて難しいことである。



顔も頭も知られている県内の同業者ではなく、
知られていない土地の床屋さんで自分の頭を刈ってもらう。

長崎のSさんたちは、それを1年以上続けた。
客体験をご子息、お弟子さんと実践された。

その体験をお手紙でいただいたが、
曰く「床屋ばなれの理由。じっとしているのはしんどい」。


お客様の体感をいっぱい積むと、
自分の企業、お店の問題が見えてくる。

問題、課題と言うが、それらもまた
消費者、お客、利用者、クライアントからみた
それらでなければ、なんの対応、解決、革新にならないのである

消費者、お客、利用者、クライアントからみた問題、課題こそ
なさねばならない対応である。
消費者になりきれて、
真に経営革新を図らねばならないことが見えてくる。

今、経営者に乏しいのは日常生活での消費者感覚だ。

だから、
今、経営者がなさねばならないことは日常での生活だ。
今、経営者が取り戻さねばならないことは消費者感覚だ。