長尾たかしの・・・未来へのメッセージ

自民党衆議院議員長尾たかしのブログ。平成11年からネット上で情報発信を継続。サラリーマン生活を経て政界へ。

保守の未熟が「差別」を招来する・・西部邁

2007-03-20 11:53:09 | 社会
自分が信条としていることで、上手く言葉に表せない微妙な思い。これが明確に表現された文章との出会い。この喜びは計り知れない。モヤモヤが一気に払拭される。

昨日の産経新聞の正論コラム。西部先生の文章は、ここ数年間の間で、私にとってはバイブルにしたいくらいの秀逸文章である。

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保守の未熟が「差別」を招来する

自由と秩序、平等と格差の平衡を

 ≪反歴史のアメリカ流≫
 生活保護費に近い収入しかない者たち(貧困層)が二千数百万人もいる。そのうち半数は不正規の勤労者だという。このような現代日本の経済的な「格差」から、政治的・文化的な「差別」すらもが生じる気配でもある。

 しかしこの差別の兆候は「機会の平等」の下での「自由競争」を礼賛する(平成改革に特有の)偏った社会正義がもたらしたものだ。だから差別社会を批判する資格が今の日本人にあるはずはない。批判さるべきは「結果の平等」を軽んじ、「規制のとれた競争」を排せんとする自由民主(平等)「主義」の観念についてであろう。このアメリカ流観念は、理想の次元においてのみ肯定されるものにすぎない。現実の次元には、歴史の産物としての「秩序と格差」が存在する。そしてその現実は、歴史の連続を多とするかぎり、民主制や競争制によって急激に変革されてはならないのである。

 それを急激に変えんとする誤謬(ごびゅう)に陥ったのが近代「主義」(別名左翼主義)であり、その急進的変革を個人主義にもとづかせたのがアメリカ流である。そしてアメリカ流で際だつのが「既得権益」への批判であり、その脈絡で「結果の平等」が(弱者の既得権益として)難詰され、平等を(競争制の活発化のために)「機会の平等」に限れと主張されてきた。

 ≪自由・平等の自己否定≫
 しかしアメリカ流は大いなる錯誤に立脚している。まず、既得権益に支えられぬような文化はあった例(ためし)がない。次に、人々のあいだにある程度の「結果の平等」が保たれていなければ、劣位にある者たちが競争に実質的に参加できなくなり、そうなれば競争制そのものが社会的承認を得られない。J・M・ケインズの次の言を想起すべきだ。

 〈既得権益の力は、観念による(人間精神への)漸次的な侵略に比べて、途方もなく誇張されている。危険なのは既得権益ではなく観念のほうである〉

 平成改革が過剰格差つまり差別の構造という危険な状態をもたらしたのは、自由・平等の観念の前にひざまずいたからだ。歴史的所与としての秩序から遊離したような自由は、かならず放縦に舞い上がる。その無秩序に誰しも耐えられず、で、秩序回復の動きが始まり、その動きが加速されて抑圧がやってくる。つまり自由が抑圧に逆転する。

 歴史的な所与としての格差から切り離された平等も、間違いなく画一に凝り固まる。その不自由にたまりかねて、人々は格差の再現を望み、その動きが暴走して差別が招来される。つまり平等が差別へと逆流していく。

 要するに、自由・平等の(理想主義的な)観念は、現実とのかかわりで平衡を喪失するのが常なのである。卑近な例でいうと、規制緩和の自由「主義」は-無秩序を統制するのが役人の仕事なので-役人支配を強める成り行きとなった。機会平等「主義」も-市場原理主義のせいで弱肉強食のありさまとなったため-差別現象を引き起こした。

 ≪「活力・公正」が徳義≫
 国民にあって、自由を発揮するのも活力だが、秩序を維持するのも活力である。そうならば、理想の自由と現実の秩序のあいだを平衡させるのが真の活力だと見定めなければならない。同じく平等という理想と格差という現実のあいだを平衡させるのが真の公正なのである。歴史感覚のある者は「活力と公正」、それを徳義の体系の頂点にすえなければならず、そうするのが保守思想の基本でもある。それは、アメリカ流の個人主義派と旧ソ連流の社会主義派という左翼主義に対峙(たいじ)している。それのみならず、秩序・格差の現実のなかに浪漫を幻想するような右翼主義ともはっきり隔たっている。

 保守思想は戦後日本においてあまりにも微弱であった。したがって、活力・公正の徳義が日本国民の伝統なのだという理解が薄らぐばかりとなった。この挙げ句「自由・民主(平等)は日本共通の基本価値」(安倍首相)という思い込みがこの列島にとりついたのである。こうした観念の錯乱こそが、今の日本に差別社会のごとき醜い相貌を帯びさせつつある。

 政治家や経済人は「実利で生きているので観念のことはあずかり知らぬ」というのかもしれない。だがここでもケインズがいってくれている。

 〈いかなる知的な影響も免れている実際家たちも…三文学者から…錯乱じみた考えを抽出している〉

 喫緊に必要なのは、保守思想の再発見にもとづいて「活力と公正」の徳義を高らかに提唱することではないのか。

西部邁・・産経新聞より
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付け加える言葉も、削除する言葉もない。
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