小島と広島と私たち

島爺の倉橋島での農作業と,
広島を中心とした孫たちとのくらし

Royal Wedding

2011-04-30 00:20:55 | 広島の生活
Royal Kiss

 横着者の主とロボコン

 父を見舞って帰宅し,テレビのスイッチを入れたところ華やかな景色(?)が。
英国王室王子の,結婚パレードだ。
やはり,騎馬民族は一味違う,という感じだ。
もう36年も前のことになるが,ロンドンはこんなにきれいではなかった。
3月末で,雪も舞うという状態で,『薄汚れた街』という印象しかない。

 島に帰る予定であったが,タイヤを交換した。
ロン・パリのように雪が降ることを想定していたわけではないが,
かみさんの車とゆっくり出会えるのは深夜に限る。それでつい怠っていた。
作業をしていたら,誰もいないはずの部屋でウイーン,ウイーンと変な音がする。
 お掃除ロボ
のぞくと,こいつだ。

 わけありで,何かを買わなければならない羽目になって手に入れたのだが・・・。
先輩たちが「なかなかのものだ」と云ったのとメーカ-が違うのだろうか。
かみさんに云わせると,どうかすると同じところをうろうろするばかりで,
30分ばかりうろつくと,すぐに休んでしまう,そうだ。
こんなに狭くて荷物の多い部屋の掃除などできるか,と,反論するかもしれない。

《今季のカープ》
 昨夜は篠田のスライド登板で安心と心配が入り混じっていたが,3点目が入ってほっ。
とたんに,城島にホームランを献上したが,これも勉強。
阪神戦の星勘定を誤っていたようで,これで対阪神は3勝2敗。

 Royal Kiss の後のプレゼントは,ほれ,あの,バリントンの頑張りで中日を下した。
昨夜も外人に助けられ,今日は,2安打完封の一人芝居だ。バリントンは3勝目だ。
広島,ヤクルトともいまは投手陣に助けられている。

 連休のため,しばらくブログを休みます
 

ある市議の功績

2011-04-29 23:47:18 | メモ
 児童78名,全員無事に避難

 何気なくつけた今朝のテレビ報道。
岩手県大船渡市立越喜来(おきらい)小学校(三陸町)。
このたびの震災で,校舎は3回部分まで海水に飲み込まれる被害をうけた。

 この小学校に学ぶ児童78名全員が,無事に避難で来た。
立地条件が良かったわけではない。
海岸に近く,県道から一段下がった敷地に建設されている。

 一人の市議会議員が,万一の場合の避難経路として,
校舎2階と県道を結ぶ避難路の建設を求めた。
多くの反対にあいながらも,彼の提言は取り上げられ避難に間に合った。

 彼は,この朗報に接することなく亡くなられた。
日本は,多震国であることを改めて念頭に入れて,
あらゆる事態を『想定』しておかなければならない。

ある村の防災

2011-04-28 20:33:27 | メモ
 このたびの東日本大震災で,無傷ともいえる村落がある。
岩手県北部に位置する普代村。
おそらく漁船を見に行かれたであろう一人の行方不明者はあったが,死傷者はゼロ。
『稲むらの火』にみられる浜口五兵衛(濱口儀兵衛)といい,先人の知恵には学ぶべきことが多い。
昨日の産経新聞の記事を抜粋。


 普代村(HPより)
 
三陸大津波直後の普代村太田名部地区

村救った2人のヒーロー 《産経新聞;4月26日》
 巨大防波堤で死者ゼロ 岩手県普代村 村長の信念と消防士の献身が結実
 
昭和8年3月3日三陸大津波直後

 久慈消防署普代分署の副分署長を務める立臼勝さん(50)ら消防士3人は,地震発生直後,大津波警報の出る中,ゲートに向かった。
故障したゲートを閉めるには水門の機械室で手動スイッチを使うしかないからだ。
津波の危機感はあったが,「まさか、あれほど大きな津波がくるとは思っていなかった」。

 3人は機械室に到着するとすぐにゲートを閉めた。立臼さんは,引き揚げようと消防車に乗り込んだとき,
背後から「バキ、バキッ」と異様な音がするのに気付いたという。
普代川を逆流してきた津波が防潮林をなぎ倒し,水門に押し寄せてくる音だった。
消防車のアクセルを踏み込み,かろうじて難を逃れた。

 漁港は大きな被害を受けたものの,防潮堤に守られた村中心部は無傷。
津波は普代川をさかのぼり水門を越えたが,住宅地や小中学校までは及ばず,河原の木々が倒れた程度だった。
 立臼さんは
「水門で9割方の水は止まり,流れ込んだ波も強い雨が降った程度ですんだ。
もし水門が10㍍しかなかったら被害の多かったほかの地区と同じように壊滅していたかもしれません」
と振り返る。

津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で,岩手県北部にある普代村を高さ15㍍を超える防潮堤と水門が守った。
 村内での死者数はゼロ(3日現在)。計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長が「15㍍以上」と譲らなかった。
 「これがなかったら、みんなの命もなかった」。
太田名部漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は高さ15.5㍍,全長155㍍の太田名部防潮堤を見上げながら話した。

 津波が襲った先月11日,店にいた太田さんは防潮堤に駆け上った。
ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが,防潮堤が食い止めてくれた。
堤の上には太田さんら港内で働く約100人が避難したが,足もとがぬれることもなかった。

普代地区でも高さ15.5㍍,全長205㍍の普代水門が津波をはね返した。

 防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ, 水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。
既に一部が完成し60年にチリ地震津波を防ぎ,「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市田老地区の防潮堤(高さ10㍍)を大きく上回る計画は当初,批判を浴びた。

 村は1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波で計439人の犠牲者を出した。
当時の和村幸得村長(故人)が「15㍍以上」を主張した。
「明治に15㍍の波が来た」という言い伝えが,村長の頭から離れなかったのだという。

 今回の津波で,宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ,数百人の死者・不明者を出した。
岩手県全体で死者・行方不明者は8000人を超えた。
 普代村も防潮堤の外にある6か所の漁港は壊滅状態となり,船の様子を見に行った男性1人が行方不明になっている。
深渡宏村長(70)は
「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った。まず村の完全復旧を急ぎ,沿岸に救いの手を伸ばす」と語った。


 BP net から借用

稲むらの火 (Wiki Pediaなど) 
 積み重ねられた稲の束,また稲架(はさ)に架けられた状態を「稲むら」と呼ぶ。
村の高台に住む庄屋の五兵衛は,地震の揺れを感じたあと海水が沖合へ退いていくのを見て,津波の来襲に気付く。
 祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため,五兵衛は自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束に松明で火をつけた。
火事と見て,消火のために高台に集まった村人たちの眼下で,津波は猛威を振るう。
五兵衛の機転と犠牲的精神によって村人たちはみな津波から守られたのだ。

明治三陸地震津波の話から,小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が英文の『A Living God 』で紀州有田の農村の長「浜口五兵衛」の偉業を紹介。
この作品を読んで感銘を受けた地元湯浅町出身の小学校教員中井常蔵(1907~1994年)は,
文部省国定国語教科書の教材公募(1934)にこの作品を児童向けに翻訳・再構成し,
「燃ゆる稲むら」として応募し入選した。
国語教材としてそのまま採用され,国定教科書に「稲むらの火」と題されて掲載された。

 農村の高台に住む年老いた村長とされている五兵衛に対して,史実の儀兵衛は指導的な商人であったがまだ30代で,
儀兵衛の偉業は災害に際して迅速な避難に貢献したことばかりではなく,被災後も将来再び同様の災害が起こることを慮り,私財を投じて防潮堤を築造した。
これにより広川町の中心部では,昭和の東南海地震・南海地震による津波に際して被害を免れた。

島の畑で-2

2011-04-27 22:46:43 | 島の生活

 雨後のアスパラ

 2週間の間に草は伸び放題。
母を送った後,雨が多く,その後暖かい日が続いたせいだろう。
今回も除草する時間はなく,柵を見回り,採り残した夏ミカンをきょうだいに届けるので精一杯。
ネギはすべてボーズが出ていた。
隅ではアスパラガスがニョキニョキと。無駄かと思ったが齧ってみると甘いので手ごろなのを収穫。
長いのは,後の生育用に残しておいた。

 ヒヨドリの食害にあったキャベツも,苗が良かったためか順調。
生長が悪く心配したソラマメも良い花をつけている。
わざわざ気を使って,苗を譲ってくれた友人に感謝。

 庭のボタンの1本は,花が終わっていた。
代わりに,別のものが花を見せ,
 植え替えで傷んだヤマブキもわずかながら花をつけていた。
連休は除草に追われそうだ。

《今季のカープ:まだコイの季節のはずなのに・・・》
 いい線いっていると安心していたら,ヤクルトに飲まれてしまった。
で,3連敗。
地元に帰って遊びが過ぎるのだろうか。

 昨夜はまだ勝ち星を奪えない阪神と対戦。
マエケンのリベンジでようやく1勝。
やれやれ。

島の畑で-1

2011-04-26 23:58:52 | 島の生活
 広き門より入るなかれ

 穂を出した小麦

 山の畑に登って気づいたのが,小麦の穂。
白木農園の作業は,里芋と刈り払い機による除草にかかっていたため小麦に注意がいかなかった。
白木の残りの種を蒔いて,ヒヨドリらしきものに葉をついばまれたが何とか順調に育っている。

 柵を見回るために登ったのである,それでも淡い期待を抱いてクワを持ってあがった。
ぬゎぁんと,タケノコがニョキニョキと顔を出している。
シメシメ,2週間の間柵が功を奏してイノシシの侵入を妨げた!。
ところが,驚くべき事実が判明した。

 畑から山への入り口を2カ所設けた。
その一つが開いている。しかもそこに1本のタケノコが素っ立っている。
 閉め忘れ入り口のタケノコ
奴らは,畑に入ろうと思えば,いつでも自由に入れたのだ。
しかも,それを誘導するかのように,おいしそうなタケノコが育っている。
 柵のそばで掘られた筍
 そこから10mも離れていない柵の外ではタケノコが掘られている。

 柵の補修に追われていたころは,子猫しか入れそうもない穴を押し広げて無理やり侵入していた。
爺は,2週間も入口を開けて,畑には20本も30本もおいしそうなタケノコがある。
それにもかかわらず,侵入していない。
職場でこの報告をすると,
「そりゃぁ,ワナでも仕掛けちょると思うて,用心したんじゃろう」
「いんにゃ,脳みその無いあいつらはそんなに偉うない。外で食うた筍で腹が肥ったんじゃろう」

 爺は,2週間もの間侵入しなかったということは,と思っている前者の説が正解かなと思っている。
恐らく代々伝えられてきた家訓があるのではなかろうか
。 
 広き門より入るなかれ 甘い言葉にha
ワナがある


第2音戸大橋

2011-04-25 23:58:32 | メモ
 
音戸港から呉市街を観た音戸大橋
色の薄い小さいのが現在の音戸大橋(手前になる)
太いアーチが,第2音戸大橋

 第2音戸大橋(仮称)架かる

 昨日,平清盛の伝説が伝わる“音戸ノ瀬戸(広島県呉市~倉橋島)”に,2本目の架橋工事があった。
恐らくFサルベージのクレーン船を使ってでの作業であったろう。
GPSとコンピュータを使っての作業とはいえ,潮の流れの速い瀬戸での作業,
是非とも見学したかったが,白木の農作業があって断念。

 昨夜は,橋桁に取り付けられた航路燈を見るにとどまったが,
今日は早めに仕事を切り上げて橋の様子を眺めた。
全長492㍍のうち,昨日架設したのは中央部分の192㍍,3500㌧。

干満の間の潮止まりを架橋作業。
ボルトで止めるから㍉の誤差も許されない。
通る楽しみより,こうした工事を見学する楽しみの方が大きい。
サツキの見ごろは週末か?。
音戸の瀬戸公園おサツキ,今は2分程度だが,この暖かさで一気に花開くだろう。

 取り付け道路も,主要部分は終わっているが,
完成は,2年後の春らしい。
 
音戸ノ瀬戸公園“高烏台”から眺めた第2音戸大橋(右)
左方に音戸大橋が見える 

現在の橋の様子

こども孝行な母に

2011-04-24 21:21:32 | 広島の生活
 11人の曾孫はまるで保育所

 担当医が確認したのが,4月15日(金)22時36分。83歳の生を終えて旅立った。
自宅に帰り仮通夜。
16日の本通夜を経て,17日に葬儀を執り行った。

 主たる病のC型肝炎に様々な病気を併発し,この2ヵ月で2回の手術も経た。
3月に入ってすぐ,
「あと1週間か2週間と考えられます」
と言われていたが,なんとか持ち直してここまで来た。
末娘の帰りを待っていたように,あの夜は痛みも訴えないで静かな最期だった。

 男1人に女2人の子供をもうけ,孫が8人,曾孫が11人となっている。
両親とも私の家族とよく旅行に付き合ってくれたが,元気な頃には,
下の子ども2人を両腕に抱えて日御碕灯台を登るほどの丈夫だった。
9歳を筆頭に11人の曾孫に見守られての通夜・葬儀は,母を象徴していた。

 それにしても,誰も仕事に支障なく母を送ることができたが,これも母の配慮か。
帰るに及ばず,と伝えていた下の息子は,葬儀を済ませた足でアメリカへの出張に出かけた。
余計な気を遣わせてはと,記事にしないつもりでいた。
土日は島に帰り記事を書かないことが多いからと,わざわざ金曜夜に記事を投稿したことにし,
17日の白木農園の作業も「急用で」と断っていたが,ちょこっと洩れた。

 母のご加護で,次男も無事に仕事を終えて帰国したと連絡があった。

白木農園の農作業

2011-04-24 19:42:10 | 農業塾OB会
 鯉のぼりに見つめられながら

 白木農園は,約35㌃に小麦,大豆と黒小豆,そば,里芋,ジャガ芋などを栽培してきた。
この圃場は多くの会員が住んでいる広島市内から約40Kmと離れ,しかも,
圃場整備で掘り返された,もとは田圃で,石ころが多く,しかも耕作放棄地が隣接し,
絶えず雑草に悩まされてきた。
 
 作業時間の多くはこの雑草退治に費やされ,昨期は猛暑もあって不作に終わった。
会員も老齢化が目立ってきたことでもあるし,良い作物を,という事から耕地を半分とした。
 今日の作業は,返却する土地及びその周辺の除草,小麦の除草,里芋のマルチ。
休憩時間には会員差し入れのチョコレートに,Oさん工夫のコーヒーで談笑。

 太田川の上流の一つである三篠川には,2箇所も沢山の鯉のぼりが泳いでいた。
絶好の作業日和で,近くの山ももえぎ色。
東北へも,早い春の訪れを願う。

 カメラを忘れては,写真も撮れない。
恐らく,白木農園だより
晴耕雨読中農日記 に詳しくあるはずだ。

OB会総会

2011-04-24 00:08:15 | 農業塾OB会


 農業塾OB会,白木農園総会

 23日(土)は,JA広島市農業塾OB会通常総会及びOB会白木農園の通常総会であった。
OB会総会は,
1号議案;活動報告並びに収支決算
2号議案;活動計画並びに予算案
3号議案;規約改正
4号議案;役員改選
と順調に全ての議案を承認され,続いて
白木農園総会も
活動状況報告,収支報告,活動計画,予算案,会則改正,役員改選を承認された。
続いての講演会は,
「TPPをめぐる課題・問題について」
と題する,JA広島中央農政広報部課長 土井氏の熱弁。
環太平洋諸国と日本の農業の課題について学んだ。

 総会を始めるにあたって,東日本大震災で尊い生命を亡くされた人々,及び,
本会会長を始め旅立たれた3名の会員に黙祷を献げた。
会員のご厚志による義捐金は,JA広島市から送金される予定だ。
日本の各地で,様々な分野で東北地方の復興を願っている気持ちを受け取っていただいけ,希望を持っていただきたいと願う。

 今年は桜を愛でる機会がなかった。
かみさんの仕事が終わるのを待って,薄暮の道を桜を求めてのドライブに誘った。
まずは県央の土師ダム。夜桜見物の提灯はたくさん下がっていたが,桜はほぼ終わり。
千代田町を経由して大朝町は5000年風呂の田原で見物。
豊平町の「フラワーロード」で待望の多くの桜に出会って帰路についた。
何かとせわしい数ヶ月であったが,すこしは気が紛れただろうか。

口福

2011-04-22 23:21:15 | 広島の生活

 
 口にするものは,作らずに戴くに限る

 昨夜はパソコン教室だった。
公民館の入り口ですれ違ったKさんが,
「これ,どうぞ。奥さんに」
袋の中は,手作りのマーマレード。
「奥さんも作っといてじゃろうと思うけど」と言われたが,
我が家には,夏ミカンの1個も持ち帰っていない。

 前回(2週間前)のパソコン教室で,必要ならと,できの悪い夏ミカンを持参した。
それが,見事に変身して手元に帰ってきたわけだ。
Kさんには,いつもこうして良いものを頂戴するのだが,私は運ぶだけ。
こういうことなら,もっと夏ミカンの木を植えようかしら。

 今年の夏ミカンはことのほか出来が悪く,とても人様に差し上げるようなものではなかった。
夏の日照りと,セミの幼虫を狙ったイノシシに根を掘り返されて,落果はする,粒も小さい。
古木(80年もそれ以上も年を経ている)は,枝の半分以上が枯れてしまった。
若木(これも50年以上)も,枯れ枝がめだった。八朔,ミカンにとっても厳しい年だったようだ。

 貰い物といえば,一昨日は先輩のHさんから法蓮草を頂戴した。
書類を届けただけであったのに,
「娘さんに」という。孫へのどら焼きも入っていた。
この人の法蓮草,枝豆は美味しいに決まっているから,半分横取りをと邪念が浮かんだがあきらめた。
しかし,今でも,もったいないことをしたと,悔やんでいる。

 毎日

 広島:引き分け挟み6連勝

昨日の対横浜,第3戦。広島は11:8で打ち勝つ。
主役は花丸印の丸ちゃん。同点の六回,丸の勝ち越し二塁打を含む4連続長短打で勝ち越し,引き分けを挟んでの6連勝。
勝ち投手はバリントンで,早くも2勝目。

丸 佳浩(22)・・・・走攻守三拍子そろった外野手として千葉経大付高からプロ入りして4年目。177㌢,80㌔。
 由規(ヤ),中田(日),唐川(ロ)と同世代。
 1軍デビューした昨季は14試合の出場にとどまったが,今季はここまで5試合の出場で打率4割3分8厘,2本塁打,6打点。
 センター赤松選手の疲労骨折で巡ったチャンスを,確実にものにしている。

云うこともいい。
「もともと本塁打を打つ打者じゃない。強く振ることで結果が出た」

 ヒーローインタビューでは「こんにちは。顔が大きい丸です」と売り込んだが,顔だけでなく存在感も日増しに大きくなっている。(以上,毎日,朝日,中国)

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