65年の祈り 決意に
《毎日:6月24日抜粋・編集》
沖縄は23日,沖縄の全戦没者の霊を慰める「慰霊の日」を迎えた。
65年前,1945年6月23日,3ヵ月近く続いた凄惨な沖縄戦で旧日本軍の組織的戦闘が終結した。奇しくも日米安保条約発効から50年の日と重なった。
沖縄県内各地で慰霊式や追悼式があった。
糸満市の「ひめゆり平和祈念資料館」前では,沖縄戦で負傷兵の看護などに動員され,多くが犠牲になったひめゆり学徒隊の慰霊祭が営まれた。
激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園では,県主催の「沖縄全戦没者追悼式」が営まれ,宜野湾市の県立普天間高校3年,名嘉 司央里(なか しおり)さんが自作の詩「変えてゆく」を朗読し献げた。
「基地が日常」を変えたい--。宜野湾市の県立普天間高校3年、名嘉司央里(なかしおり)さん(17)は、糸満市摩文仁の平和祈念公園であった沖縄県主催の全戦没者追悼式で自作の詩「変えてゆく」を朗読した。米軍基地に囲まれた日常に疑問を抱き、一人一人が意識を変えれば「基地の島」を変えていけると訴えた。
名嘉さんは,米軍普天間飛行場に隣接する宜野湾市愛知で生まれ育った。幼いころは,ヘリコプターが上空を飛び交うのは「当たり前」の日常と思っていた。しかし,平和学習で沖縄戦や,今も残る戦争の傷跡を学び,意識が変わり始めた。04年8月には近くの沖縄国際大に米軍ヘリが墜落。戦争につながる基地がすぐ近くにある「違和感」が強くなった。
詩を書き上げたのは,先月25日ごろ。「最低でも県外」と発言していた鳩山由紀夫首相(当時)は,普天間の移設先を名護市辺野古で米政府と合意しようとしていた。「変えてゆくのは難しい」現実にもどかしさを感じる一方で、「私たちの世代から変えていかないと何も変えられないし、平和は願うだけでは来ない」と思い、題名を「変えてゆく」に決めた。
公園内にある犠牲者名を刻んだ平和の礎(いしじ)を初めて訪れたのは小学1年の時。「なぜこんなにたくさんの人が亡くならなければならなかったのか」。驚きと悲しみがこみ上げた。礎には出征した祖母のいとこの名前が刻まれている。平和への誓いを込めて,詩をこう結んだ。「『一度あった事は二度とない』に変えてゆこう 平和で塗りつぶしていこう その想(おも)いはきっと届いているはずだから」