小島と広島と私たち

島爺の倉橋島での農作業と,
広島を中心とした孫たちとのくらし

縁-2

2013-05-30 19:44:02 | 子どもたちに
長安の夕映え
 父母恩重経ものがたり
 (文藝春秋刊)

 優介のお祖母ちゃん和子さんが病魔と闘っていた頃,
私はたまたま一冊の本を開いていた。
「司馬遼太郎短編全集<一>その中の表題の作品で,
昭和27年(1952)福田定一(29歳)名で“ブディスト・マガジン”
に掲載されたもの,とある。
 話は都城の城門を守る衛士たちと,母親の供養と布教にと
天竺から来た老僧の出会いに始まる。
ここでは,老僧の語りのみを記載する。


ーーーかくのごとく,われきく。あるとき,

 仏,王舎城のギシャクツの山の中に,菩薩,声聞の衆とともにましましければ,比丘,比丘尼,優婆塞(うばそく),優婆夷(うばい),一切諸天の人民および竜鬼神など,法をきかんとて来たり集まり,一心に宝座をかこんで,瞬(まばたき)もせで尊顔を仰ぎみたりき・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 このとき,仏すなわち法を説いてのたまわく。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 一切の善男子,善女人よーーーー。
 父に慈恩あり,母に悲恩あり,そのゆえは,人のこの世に産まるるは,宿業を因として,父母を縁とせり。父にあらざれば生れず,母にあらざれば育たず・・・・その恩,未形におよぶ。
 はじめ,胎に受けしより,十月を経るの間,行,住,坐,臥,ともにもろもろの苦悩を受く。
 月満ち日足りて,産む時いたれば,業風吹きてこれを促し,骨節,ことごとく痛み,汗,あぶらとともに流れて,その苦しみ堪えがたし。
 父も,心身おののきおそれて,母と子を憂念し,諸親眷属,みな,ことごとく苦悩す。
 すでに生れて,草上に堕つれば,父母の喜び限りなきこと,なお貧女の如意の珠を得たるがごとし・・・・・・
 それより,母の乳を食物となし,母の情を生命となす。飢えたるとき・・・・・・母にあらざれば哺(くら)わず。渇きたるとき・・・・・・母にあらざれば咽(の)まず。寒きとき・・・・・・母にあらざれば着ず。
 母,東西の隣里にやとわれて,あるいは水を汲み,或いは火をたき,あるいは碓(うす)をつき,あるいは磨(うす)をひき,種々の事に従事して,家に帰るのとき,いまだ家に至らざるに,いまやわが児,家に哭きさけびて,われを恋慕わんと思い起こせば,胸騒ぎ,心驚き,両乳流れ出でて忍び堪うることあたわず。
 すなわち家に帰るや,児,遙に母の来れるをみて,揺籃(ゆりかご)の中にあれば,頭(かしら)をうごかし,脳(あたま)を弄し,外にあれば,腹這いして出で来り,鳴呼(そらなき)して母に向う。ーーーー母は児のために足を早め,身をまげ長く両手をのべて塵土をはらい,わが口を児の口に接けつつ,乳を出だして飲ましむ。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 二歳,母の懐をはなれて,はじめて歩く。父にあらざれば,火の熱きことを知らず,母にあらざれば,刃物の指を落すを知らず。
 三歳,乳を離れて,始めて食(くら)う。父にあらざれば毒の命を落すことを知らず,母にあらざれば薬の病を救うことを知らず。
 ----父母,外に出でて,他の座席に往き,美味珍羞を得ることあれば,自らこれを食うに忍びず。すなわち,懐に収めて持ちかえり,呼び来りて児に与う。得れば児,歓喜して,かつ笑いかつ食う。得ざればすなわち,佯(いつわ)り哭(さけ)びて,父を責め母に迫る。
 ・・・・・・やや成長して朋友と相交わるにいたれば,父は衣を求め,帯を求め,母は髪を梳り髻(もとどり)を摩(な)で,おのが美好の衣服は,みな子に与えて着せしめ,おのれは古き衣,破れたる服を纏う。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 子,すでに妻をめとらば,父母を転た疎遠にして,夫婦はとくに親近し,私房(へや)において妻とともに語らい楽しむ。
 父母,年高(とした)けて,気老い,力衰えぬれば,頼るところは唯だ子のみ。頼む所は唯だ嫁のみ。
 しかるに夫婦,共に朝(あした)より暮にいたるまで,いまだ敢て,ひとたびも父母の室に来り問わず。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 用ありて子を呼べば,子は眼を怒らせて怒り罵る。嫁もこれを見て頭(こうべ)を垂れて笑を含む。
 あるいはまた,急の事ありて,疾く呼び命ぜんとすれば,十たび呼び手九たび違い,ついに来りて給仕せず。却って怒り罵りていわく,
「老い耄れて世に残るよりは,早く死なんには如かず」と。
 父母,これを聞きて,怨念(うらみ),胸にふさがり,涕涙(なみだ),まぶたを衝きて,目瞑(くら)み,心惑い,悲しみ叫びていわく。
「ああ,なんじ,幼少の時,われにあらざれば養われざりき。われにあらざれば育てられざりき。しかして今にいたれば則ち,却ってかくのごとし。ああ,われ,なんじを生みしは,本より無きに如かざりけり」
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 悲母,それ,初めて生みしときは,顔(かんばせ),花の如くになりしに,子を養うこと数年なれば,容(かたち)すなわち憔悴す。
 水のごとき霜の夜にも,氷のごとき雪の暁(あした)にも,乾ける処に子を廻し,湿(うるお)える処におのれ臥す。子,おのれが懐に屎(くそ)ひり,あるいは,その衣に尿(いばり)するも,手みずから洗いそそぎて,臭穢(しゅうえ)をいとうことなし。
 もし子,遠く行けば,帰りてその面を見るまでは,出でても入りても,これを思い,寝(いね)ても寤(さ)めても,これを憂う。
 おのれ生ある間は,子の身に代らんことを念(おも)い,おのれ死に去りて後も,子の身を護らんことを願う。
 然るに・・・・・・
 長じて人と成れる後は,
 声を抗(あら)げ,気を怒らして,父の言(ことば)に順(したが)わず,母の言に瞋(いかり)をふくむ。
 すでにして妻をめとれば,父母にそむき違うこと,恩無き人の如く,兄弟を憎み嫌うこと,怨(うらみ)ある者のごとし・・・・・・
 妻の縁族来たれば,
 堂に昇(のぼ)せて饗応し,室に入れて歓晤す・・・・・・
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

星が,一つ,桑畑の上に流れた。

 和子さんは,夫の,娘の呼びかけに四度まで応えて呼気を取り戻されたという。
和子さん,あなたもすでに気付かれたように,ゆ~すまも,あなたから学んだことを受け継ぎ,良き母として子育てに励み,祖母,父を大切にしています。心安らかに眠ってください。

 著者には申し訳ないのですが,一部を転載させてもらいました。お許しください。 
この全集(全十二巻)には,帯にあるように,作家・司馬遼太郎誕生の頃からの珠玉の短編が収められている。

 今月二度目の歯の治療を受けた。来月は18日という。息のある内に終わればいいが・・・。
 投稿,少し休みます


 
 

2013-05-29 23:56:54 | 孫たち
 神奈川の娘に電話を入れたのは23日のことであった。
風疹が流行っているというので,まだなら予防接種をすすめるつもりが,
「お母さんのご加減はどう?」と聞いていた。
「ちょっと心配したけど,今は落ち着いています」
実家に帰っている。
どうも彼女の最近のブログが,淡々としているというか,よそよそしい。
5月の連休の話題もなかった。

 娘に電話しにくくて,26日(日)夜,息子に電話した。
繋がらない。
27日(月)昼過ぎ,買い物から帰ると,メールが入っていた。
“お母さんが,亡くなられました”と。

 彼女は,クモ膜下出血により10年前から闘病生活をしていた。
知人の妻は,学校から帰宅した子どもが炬燵で倒れている母を発見,
死因は,クモ膜下出血によると判断された。
だから,医療機関,家族の介護・看護が如何程のものであったか,
容易に想像できる。それと共に彼女の意志の強さも。

 私の子ども3人の連れ合いの両親は,私たちを含めて8人になる。
順序からすれば最高齢の私が最初に逝くことになるのだが,
人の世はままならない。彼女は61歳であった。

 結局は私一人が彼女の家族を煩わせることになったのだが,
子どもの申し出を断って,私たち夫婦二人で彼女に別れを告げてきた。

 彼女は,自分の意思は表明できないが,記憶と判断能力はあった。
だから,初孫のゆ~すけも認識し,喜んでくれていた。
それが,彼女の力になっていてくれたと思う。

 一方,ゆ~すけは祖母の死が理解できないでいる。
当然のことなのだが,そのことが一層悲しい。

島の菜園

2013-05-28 11:16:20 | 島の生活
 NHKアナは変わっている?

 中国地方も昨日(27日),
梅雨入りしたらしい,
との報道があった。

 街頭に出たレポーターが,
「アジサイはまだ1~2分といったところです」
「それって,ガクアジサイじゃないの?」

 その前の日の話
「そんなことをうたった歌がありましたね。
 たしか,え~と“垂れるほど・・・”」
ん?,なんだこりゃ?。
そうか,“稔るほど 頭を垂れる ・・・”か。
(このときは,だあれも訂正しなかった)

 我が家のガクアジサイも“1~2分”で,
薄いピンクの花弁になるはずだが,本の開いたばかり。
ばたばたして他の種類は確認できなかった。

 一仕事終えたところに,はとこのRさんがやってきた。
「この間来たのに車がなかったから・・・」
「ソラマメは僕も植えているから」
「あんたん家(ち)は,家族が多いから」

 写真のソラマメは私の作品。
グリーンピースは従弟のK君の作品。

 前回も今回も,葉の枯れた水仙の掘り上げに時間を食った。
機能になって,従弟のくれたナス・キューリ・カボチャを定植した。
他に,トウモロコシ,スイカ(1本だけ!)を,形作りに植えた。
時期遅れだが,ソラマメも何とかなったし,植えなきゃ出来ない。
サツマイモは,植える時間もなく,雨蛙の声に誘われて仕事を終えた。

 島を出るとき,ぽつり,ぽつぽつと雨滴が落ちだした。

島の花

2013-05-27 23:59:21 | 島の生活
 島の花

 30日に歯科治療の予定。
都合があって早めに帰宅した。
一重の芍薬はもう終わりに近い。
井戸浚えで消えた者と心配カラー
少しだが復活していた。

 蕾で虫に食われたバラ,
今回は一部咲いていた。
科内の誕生日に買った。

 島育ちのバラは健全。
虫もつかない。(左)

この時期の花・・・・,
アジサイがあった。

耕三寺・結構

2013-05-25 01:00:00 | メモ








日光東照宮陽明門
写真はWebからお借りした

















耕三寺
 孝養門
 五重の塔
 写真は尾道市が募集した春の季節の観光写真・優秀作品(Web)

耕三寺を見ても,結構でしょう!
 日光東照宮陽明門の雁木(石段)での記念写真を取り上げた拙文に,
地元の方から,早速にコメントをお寄せ頂いた。
折角の“ひろしま菓子博”にあわせ近くの観光地等を紹介すれば良いのに,
黙っているから「広島は“宮島”と“原爆ドーム”」のイメージしか与えない。
おとなしいのか,謙虚なのか,やる気が無いのか,惜しい機会を逃した。

 残念だから,隠れた観光地・耕三寺を紹介する。
島を出て身を立てた人が,亡き母の菩提を弔うため耕三寺を建立された。
日本各地の歴史的建造物を模した建物の一つが,陽明門を模した孝養門です。
すぐ近くには,シルクロードの“平山郁夫美術館”も控えています。
残念ながら,観光案内にもこの二つはリンクされていません。全くモウ!。

 少し足を伸ばすと,大三島には“大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)”があります。
海・山の神,戦いの神として全国の三島神社・山祇神社の総本社で,
宝物館には,国宝・重要文化財の指定を受けた甲冑の約4割が集結。

しまなみ海道からは外れるが,フェリーで渡る隣の大崎上島。
ここも歴史と観光とお宝の島。櫂伝馬競漕の島で,厳島神社と通じる。
Y君は,バケツ一杯のアサリを簡単に手で掘り上げたとか。


アドバルーンマークが耕三寺と平山郁夫美術館

 寺社ガールも多いとか,尾道から伊予の石鎚神社まで,楽しめます。

 ちょっと,ブログを休みます

そば

2013-05-24 16:22:27 | 広島の生活
 意地汚く・・・

 会場は,
“やぶそば 広島店”
市内中央部,
広島そごう10階。
〆は
ザルで三種盛り

 昨夜は蕎麦食べ歩きの会。
早めに着いたので傍の量販店を覗いたが,
高齢者に手の届くパソコンは見当たらず,
戻った百貨店に,以前あった書店も見えない
やんごとなく休憩室で本を広げていると,
世話役のNさんに肩を叩かれた。

 参加者は14名。
我慢していたので,先ずはと生ビールを注文したが,突き出しは“そば味噌三種”。
ならばと清酒に切り替えたが,これが私の悪い癖,つい飲み過ぎた。
それでも,そばがき一切れを残して間食。
ザルは,“外一(そば10+つなぎ1)”を,私は最もおいしく感じた。

 散会後,ちょっと気になることがあって神奈川県の娘に電話。
 予感が外れて欲しいが,平穏無事に時間が経過することを願うのみ。
                                         
親の小言と冷たい酒は直ぐに効かぬが後で効くそうだが,
この年になるとつまらない農作業も後で効いてくる。
一昨日の「里芋の芽出し作業」,今日の方が腿が痛く,階段がしんどい。
島に帰るつもりであったが,つい,ぶらぶらしている。

さてさて

2013-05-23 16:07:45 | 農業塾OB会
 料理教室(5月)

 昨日は白木農園・料理教室。
詳しくは白木農園だより,晴耕雨読
中農日記等に記載されているから,
今回は省略させてもらう。
右は隣の班の出来上がり。敢えて口幅ったい物言いをすると,
料理は器で(を)食べる。量と内容(和・洋・中)から盛りつけたい。
材料で分からなかったのが“車麩”と鯛の量。
車麩を担当したNさんは苦労したようで,“仙台麩”を購入。これには油が含まれていたから,湯で戻した方が良かったようだ。
 鯛は「4人分で3切れ」とある。さて?。専門店の入っているSCで,尾頭付きが半額表示で残っていたから高をくくっていた。ところが購入当夜,私が動けなくて娘に頼んだら,3軒まわって,結局は予定のSCにこれしか無いという。4班で24人分だが,切り身は1枚ずつ,それに,3枚におろしたのを1枚ずつ付け加えれば良さそうだ。
 鯛はからっと油で揚げて使ったが,魚好きの私なら,さっと湯通ししてそのまま使うところであった。


つまらない身体になってしまった
 白木圃場のサツマイモが黒マルチに被われたままで惨めな状態であったという。
穴を開けての芽出し作業なら何とかなるだろうと,手の空いた者4人で出かけた。
ところが暑いこと,熱いこと。
真夏日の立ったり座ったりの作業はこたえた。
昨日はふらふらだったが,今朝になると太股に痛み,
倚子からの起居にも「よっこらしょ」

 “三浦裕一郎(80歳),エベレスト登頂に成功”
のニュースが入ったが,これでは近場の白木山(1000m足らず)にも登れない。

村上監督,またね!-余禄

2013-05-22 21:09:41 | 医療生活
 初めてのスキャン

「これ誰や?」
「そりゃぁ,・・あれじゃろうが」
「“あれ”云うて,だれじゃぁ?」
「それよ・・・」
とりとめもない会話が続く。
「あれっ!,村上はどこや?」
「インターハイに出場していて・・」
H君が配った44年前の写真。
スキャナーで用意してくれた。
セピア色の写真を前に広島弁
(世羅弁)が飛び交う。

「広島弁じゃぁ,困ったよのう」
「そりゃぁ,そうじゃろう。
“へーからのうや”(それからね)
“へ~でのう”(それでね)
“まぁ,こっちけえ”
 (まあ,こちらへいらっしゃい)」
とても女の言葉とは思えんもの」
「切符を買うのに
 “おせ2枚”
 云うたら,目を白黒させてのう」
「“おせ”いうたら,何じゃったかいのう?」
「大人びた子どもに云うじゃろう
 “おせらしゅうなったのう”
 と,あれよ」
「そうか!“大人2枚”ということかぁ!」

 1枚の写真が,高校時代にタイムスリップさせてくれた。

料理教室の帰りに白木農園でちょっとした作業。
だが,暑さ(30度を超える真夏日であったそうな)に疲れ,
ついうたた寝をしていた。
テレビを点けてつい落涙。
NHK“終末期医療ーー食事を心のケアに”
写真には大病院の看護師長が3人もいる。
誰もがいつかは迎える終末期をどこでどう過ごすか,考えさせられた。

プリンターが・・・!

2013-05-21 23:15:25 | 広島の生活
用なし爺もたまには忙しい

 15日(水)の夜,島から帰った。
翌16日は,パソコン同好会の集まり。
1日ゆっくりして,18日は住宅展へ。
終の棲家と(今将にその時だが)老後
をどのように過ごすか話していた。
元の住居をどうするか,提案を受けた。
一つが居住を前庭とするT社の2×4住宅。

 実は2×4工法を軽く見ていたのだが,
工場,建築現場,建物と見学して感心した。
不器用な人が造る(?)だけあって,工夫が一杯。
“支え”に関しては実に頑丈に出来ている。
物置を自力で造るとして,大いに参考になった。
昼は寿司会席をご馳走になったが,茶も水も出ない。
あれは,ビールを飲ませたいが為の店の作戦だった。
渇いた喉に,おいしいはずの食べ物を詰め込んだ。

 今日の客は,二人とも尻の長い人であった。
娘にかけていた生命保険が満期になったからと届けてくれる
と思ったが,意に反して,2時間もしゃべったあげく,
孫の養老保険にと取り上げて帰って行った。
「今度伺うときは,空手では来ませんから」
なに,“こんど幽霊”に決まっている。
コーヒーにお茶請けまで出して,ものすごく損した気分になった。

 19日は村上監督の歓送会で,昨日は歯の治療。
着たく以来,調子の羽受かったパソコンの機嫌が悪い。
今回は折角準備してくれたセピア色の写真を読まず,
複合印刷機のジャックが毀れていることに気付いた。
元同僚のY君が心配して,修理費より安い印刷機を購入。
現職であれば,もう一つ上の機種を選ぶところだが,
ランニングコストも考え,インクはバラ詰めとした。
パソコンとは無線LANで繋いで,購入費6380円。
設定までしてくれ,Paint.netもダウンロードしてくれ
その使い方も指導してくれたY君に感謝。

 明日は料理教室。
頼まれた魚を買う時間も無く,娘に頼み込む。
昨夕は確認していた小鯛も,品切れの上定価販売。
何とか,娘夫婦が体裁を整えてくれた。

村上監督,またね!

2013-05-21 14:20:40 | 広島の生活
 ○○のないコーヒーみたいな・・

 19日(日)は村上監督の歓送会であった。
当時の新畑監督にあこがれ,愛媛県から
海を渡って世羅高校に入学した。(S43)
高校駅伝全国大会で1,2回優勝の世羅も,
県大会は盈進高校等の後塵を拝していた。
新畑監督は就任3年目で優勝に導いた(S42)。
その時の主力は2年先輩の宮広重雄選手。
1年生で8Km区間を任された村上の加入で,
県大会優勝の常連校となった。
(宮広重雄:順天堂大⇒世羅高校監督⇒広島経済大監督)

 当時は,福岡大濠,宮崎小林などの九州勢が強く,
全国制覇はならなかったが,上位に名を連ねた。
村上は日体大に進学し,1年生から箱根を走り,
母校の監督に就任し,“ひろしま男子駅伝”の監督を兼任,
三次高校に転任した後も広島県の監督を兼任した。
2010年の1月,男子駅伝の監督としての任務を終え帰宅途中,
脳血栓で倒れた。

 場所が自宅近くであったことが幸いして,めでたく今春定年退職。
彼の援助にと辞職していた“奥さんと悠々自適”と解していたのだが,
生活の本拠を東京に移し,ご子息との同居生活に入るという。
そこで,世羅町に住んでいる同級生が中心となって歓送会となった。

 集まったのはご夫妻を含めて13名。
「ありゃぁ,いつの事じゃったかいのぅ?」
「そりゃぁ,あのときよ」
再就職した者もいるが,家業を継いだり,
農業に就いた者の意味不明な会話が弾む。
“またこんど”と“幽霊”に遭ったことは無い,
とは言うが,
「1年に1度は帰ってくるよ」
を頼みに,再会を約して別れた。

 ところで雨の中を車で出かけた私は飲めない。
(会場は広島空港近くのエアポートホテル)
前日の土曜日にも同じようなことがあったが,
おいしい料理もノンアルコール飲料では喉に詰まる。
ホテルに着いた時にも,(展示試乗用の)ベンツが迎えてくれて,
軽トラの駐車に戸惑ったが,次会は近場で願いたいものだ。