小島と広島と私たち

島爺の倉橋島での農作業と,
広島を中心とした孫たちとのくらし

勲章

2013-11-15 01:00:00 | 子どもたちに
Scan0037 お好み焼き卒論-50 ぐうたら亭主と働きものの女将

 鉄板一枚で戦後を生き抜いた「お好み焼き屋のおばちゃん」こそ,
自立する女性の鑑・・・・。広島市安佐南区G二丁目で店を切り盛りする
傍ら,人材育成の市民大学に通うKさん(44)が「お好み焼き店経営と
女性の自立」と題した卒業論文をまとめた。「お好み焼きの技術を輸
出すれば第三世界の飢えを救い,女性の起業を後押しするのでは」と
国際貢献策まで盛り込んだユニークな論文の主を訪ねてみた。
     [1993年(平成5年)9月13日(月曜日) 中国新聞(夕刊)]
  

 夫は安月給のくせに呑兵衛のぐうたらで,子どもにミルクも買えない
と,結婚早々から,知人の紹介でミカサボールの手内職を始めた。
転居後は近くのカメラ店でパート勤務。
脳溢血で倒れた父と世話する母を少しでも助けることができたら,と,
この地に転居し,お好み焼き屋を開業した(1982年(昭和57年))。
儲けは無くとも,「ただいま」と帰る子どもを迎えてやることができ,
両親の手助けにもいくらかはなるであろうから,と。

 一昨年,転倒して右手指を骨折し,休業から廃業となった。だが,
今も夕方はH大学食堂のパート勤務をしている。

 彼女の店は,今はもう跡形もない。
朝夕磨いてきた,畳1枚大の鉄板も利用されること無く廃棄された。
彼女の働いてきた証は,この1枚の新聞記事だけになってしまった。
記事に取り上げられたロマンは,実現すること無く消えようとする。
だが,取り上げてくださった,中国新聞報道部・石丸賢記者に感謝。
唯一の,大きな勲章として貞節にしたい。

 亭主?
相変わらず晩酌を欠かさず,島を行ったり来たり,ぐうたらしている。

縁-2

2013-05-30 19:44:02 | 子どもたちに
長安の夕映え
 父母恩重経ものがたり
 (文藝春秋刊)

 優介のお祖母ちゃん和子さんが病魔と闘っていた頃,
私はたまたま一冊の本を開いていた。
「司馬遼太郎短編全集<一>その中の表題の作品で,
昭和27年(1952)福田定一(29歳)名で“ブディスト・マガジン”
に掲載されたもの,とある。
 話は都城の城門を守る衛士たちと,母親の供養と布教にと
天竺から来た老僧の出会いに始まる。
ここでは,老僧の語りのみを記載する。


ーーーかくのごとく,われきく。あるとき,

 仏,王舎城のギシャクツの山の中に,菩薩,声聞の衆とともにましましければ,比丘,比丘尼,優婆塞(うばそく),優婆夷(うばい),一切諸天の人民および竜鬼神など,法をきかんとて来たり集まり,一心に宝座をかこんで,瞬(まばたき)もせで尊顔を仰ぎみたりき・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 このとき,仏すなわち法を説いてのたまわく。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 一切の善男子,善女人よーーーー。
 父に慈恩あり,母に悲恩あり,そのゆえは,人のこの世に産まるるは,宿業を因として,父母を縁とせり。父にあらざれば生れず,母にあらざれば育たず・・・・その恩,未形におよぶ。
 はじめ,胎に受けしより,十月を経るの間,行,住,坐,臥,ともにもろもろの苦悩を受く。
 月満ち日足りて,産む時いたれば,業風吹きてこれを促し,骨節,ことごとく痛み,汗,あぶらとともに流れて,その苦しみ堪えがたし。
 父も,心身おののきおそれて,母と子を憂念し,諸親眷属,みな,ことごとく苦悩す。
 すでに生れて,草上に堕つれば,父母の喜び限りなきこと,なお貧女の如意の珠を得たるがごとし・・・・・・
 それより,母の乳を食物となし,母の情を生命となす。飢えたるとき・・・・・・母にあらざれば哺(くら)わず。渇きたるとき・・・・・・母にあらざれば咽(の)まず。寒きとき・・・・・・母にあらざれば着ず。
 母,東西の隣里にやとわれて,あるいは水を汲み,或いは火をたき,あるいは碓(うす)をつき,あるいは磨(うす)をひき,種々の事に従事して,家に帰るのとき,いまだ家に至らざるに,いまやわが児,家に哭きさけびて,われを恋慕わんと思い起こせば,胸騒ぎ,心驚き,両乳流れ出でて忍び堪うることあたわず。
 すなわち家に帰るや,児,遙に母の来れるをみて,揺籃(ゆりかご)の中にあれば,頭(かしら)をうごかし,脳(あたま)を弄し,外にあれば,腹這いして出で来り,鳴呼(そらなき)して母に向う。ーーーー母は児のために足を早め,身をまげ長く両手をのべて塵土をはらい,わが口を児の口に接けつつ,乳を出だして飲ましむ。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 二歳,母の懐をはなれて,はじめて歩く。父にあらざれば,火の熱きことを知らず,母にあらざれば,刃物の指を落すを知らず。
 三歳,乳を離れて,始めて食(くら)う。父にあらざれば毒の命を落すことを知らず,母にあらざれば薬の病を救うことを知らず。
 ----父母,外に出でて,他の座席に往き,美味珍羞を得ることあれば,自らこれを食うに忍びず。すなわち,懐に収めて持ちかえり,呼び来りて児に与う。得れば児,歓喜して,かつ笑いかつ食う。得ざればすなわち,佯(いつわ)り哭(さけ)びて,父を責め母に迫る。
 ・・・・・・やや成長して朋友と相交わるにいたれば,父は衣を求め,帯を求め,母は髪を梳り髻(もとどり)を摩(な)で,おのが美好の衣服は,みな子に与えて着せしめ,おのれは古き衣,破れたる服を纏う。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 子,すでに妻をめとらば,父母を転た疎遠にして,夫婦はとくに親近し,私房(へや)において妻とともに語らい楽しむ。
 父母,年高(とした)けて,気老い,力衰えぬれば,頼るところは唯だ子のみ。頼む所は唯だ嫁のみ。
 しかるに夫婦,共に朝(あした)より暮にいたるまで,いまだ敢て,ひとたびも父母の室に来り問わず。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 用ありて子を呼べば,子は眼を怒らせて怒り罵る。嫁もこれを見て頭(こうべ)を垂れて笑を含む。
 あるいはまた,急の事ありて,疾く呼び命ぜんとすれば,十たび呼び手九たび違い,ついに来りて給仕せず。却って怒り罵りていわく,
「老い耄れて世に残るよりは,早く死なんには如かず」と。
 父母,これを聞きて,怨念(うらみ),胸にふさがり,涕涙(なみだ),まぶたを衝きて,目瞑(くら)み,心惑い,悲しみ叫びていわく。
「ああ,なんじ,幼少の時,われにあらざれば養われざりき。われにあらざれば育てられざりき。しかして今にいたれば則ち,却ってかくのごとし。ああ,われ,なんじを生みしは,本より無きに如かざりけり」
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 悲母,それ,初めて生みしときは,顔(かんばせ),花の如くになりしに,子を養うこと数年なれば,容(かたち)すなわち憔悴す。
 水のごとき霜の夜にも,氷のごとき雪の暁(あした)にも,乾ける処に子を廻し,湿(うるお)える処におのれ臥す。子,おのれが懐に屎(くそ)ひり,あるいは,その衣に尿(いばり)するも,手みずから洗いそそぎて,臭穢(しゅうえ)をいとうことなし。
 もし子,遠く行けば,帰りてその面を見るまでは,出でても入りても,これを思い,寝(いね)ても寤(さ)めても,これを憂う。
 おのれ生ある間は,子の身に代らんことを念(おも)い,おのれ死に去りて後も,子の身を護らんことを願う。
 然るに・・・・・・
 長じて人と成れる後は,
 声を抗(あら)げ,気を怒らして,父の言(ことば)に順(したが)わず,母の言に瞋(いかり)をふくむ。
 すでにして妻をめとれば,父母にそむき違うこと,恩無き人の如く,兄弟を憎み嫌うこと,怨(うらみ)ある者のごとし・・・・・・
 妻の縁族来たれば,
 堂に昇(のぼ)せて饗応し,室に入れて歓晤す・・・・・・
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

星が,一つ,桑畑の上に流れた。

 和子さんは,夫の,娘の呼びかけに四度まで応えて呼気を取り戻されたという。
和子さん,あなたもすでに気付かれたように,ゆ~すまも,あなたから学んだことを受け継ぎ,良き母として子育てに励み,祖母,父を大切にしています。心安らかに眠ってください。

 著者には申し訳ないのですが,一部を転載させてもらいました。お許しください。 
この全集(全十二巻)には,帯にあるように,作家・司馬遼太郎誕生の頃からの珠玉の短編が収められている。

 今月二度目の歯の治療を受けた。来月は18日という。息のある内に終わればいいが・・・。
 投稿,少し休みます


 
 

爺婆は西へ-5

2012-05-07 23:07:13 | 子どもたちに

 〆は菊池温泉で
 熊本城で遊んだ後は換えるだけ。
貧乏世帯で節約したけど,旅費も尽きたようだ。
最後の〆は菊池温泉とすることとした。
ここは,つるつるすべすべの美肌の湯だ。
泊まらないで湯に浸かるだけ。
予想は当たって,“わくわく”の町湯があった。

遠赤とスチームサウナ,打たせ湯に,電気・浮き・岩風呂が揃っていて入浴料金はたったの300円。
かみさんは乗る人,私は担ぐ人で車の運転が待っているから外の観光施設で足湯に浸かる。
驚いたことに,足が白くなっている。養生すれば色の黒さもとれるかなと考えていたら,
売り家があれば買って住みたいね,とつぶやいていた。

 夫婦二人共に元気であるなら,すべてを処分してそれも出来るかな。

 貧乏人と見くびってか,高速道路の入り口が見えない。
最初の設定も悪かったのか,ナビも教えてくれない。
ようやく久留米で自動車道に乗ったら,
「ルートを外れたので情報を提供できません」
ときた。持ち主に似たのか,やることが頑固だ。

 自宅に帰着したのは日付の変わった午前1時10分。
走行距離,420Kmとなっていた。
無事に帰れて何より。
しかなぁ,ちょっとグレてやるか?

爺婆は西へ-4

2012-05-07 20:56:28 | 子どもたちに
 笑って元気に!
 物忘れがひどくなったのか,お城を訪ねたか否か記憶にない。
かみさんは,両親と一緒に来たという。
水前寺公園は見学したことがあるから,その時・・・
 前夜は9時を回って宿に着いた。
途中,宿泊可能な施設が見えたから,
予約するのでなかったと後悔したものだ。
6日(日),最終日。とにかくお城に向かった。

 車から降り立ったとたん,大きな笑い声が。
大勢が楠の大木を囲んで遊んでいる,様に見えた。車椅子の人も一緒になって。
幟旗に“笑うヨガ”とか何とか書いてあって,動いては誰かがしゃべって,そして皆が声をそろえて大声で笑う。
眺めていたかみさんが,瞼を押さえている。お父さんにもこんな経験をさせてあげたかった,と。
父は,最後の3年間,車いすからベッドへと笑うことなく過ごした。
帰宅して調べると,“笑うヨガ大会”とある。

 先日は音戸ノ瀬戸公園で陽光を浴びる養護老人ホームの人たちを見た。
無理してでも笑う作業を付け加えれば,もっと元気を取り戻すことが出来るかな。


熊本城に楽しさいっぱい
 あらためて,広いなぁ,大きいなぁ。
城内にはボランティアであろうか,
忍者,剣術使いなどが楽しませてくれる。
新装なった大広間では賑やかに民謡が。



 城の近く,桜の馬場には
『歴史文化体験施設“湧々座”』と
『桜の小路』として食事,物産店が並び,
お城との間を無料シャトルバスが走る。
鹿児島にも同じような施設があったが,
“湧々座”は子どもも十分に楽しめる。
映像+芝居 ,姫や代官になったり,
馬や駕籠に乗って楽しみ,
水の無い池で,鯉を追って遊ぶ。
これらはすべて無料となっているから,保護者はありがたい。

爺婆は西へ-3

2012-05-07 18:42:09 | 子どもたちに
  シカはシシ,蝶より強し?
 5日(土),“カッパの湯”で朝風呂を浴び,かみさんの要望で鉄輪温泉へ。
温泉施設で泥湯に浸る間に周囲を散策する。
ごうごうと湯気を噴出する側に竹林がある。
見るとタケノコがいっぱい生えている。
鶴見岳でしかの糞を目撃したが,蝶も見えない。
異動先を熊本としてビジネスホテルに予約を入れる。

 やまなみハイウエイに入り,鶴見岳ロープウエイに乗る。
高原駅(標高503m)から山頂駅(標高1300m)まで,1800m余の所要時間は10分(往復料金は1400円)。
ゴンドラからの眺めはすばらしかったが,山頂(1375m)からは,黄砂の影響で別府の町並みは霞んでいる。
山上も遊歩道に七福神が配置されそれなりに楽しめるが,TVアンテナが5基も林立して無粋だった。


九重“夢”大吊橋
 かみさんお勧めの“ナイアガラの滝”こと“原尻の滝”を見物したかったが,次回に譲って割愛。
再び“やまなみ”に乗り,九重町の『九重“夢”大吊橋』に。
橋の下には深い渓谷がある。
橋のこちらと向こうの間には立派な迂回路があり,2Km程度。
山中のこととて,人家も見えない。橋の幅は1.5m。
高速道路建設で獣道を付設するいう話は聞いたことがあるが,
「これ,何のために作ったのですか?」
「やぁ,観光のためですよ」

九州の人はやることが豪儀だ。
町単独で20億円かけて,ねぇ。
標高777mの山中に,全長390m,主塔の高さ43m,川面から173m。
幅は,人がやっとすれ違える程度で,20億円かぁ。
離島の人は,なんと聞くだろうか。

眺めは良かった。“震動の滝(落差83m)”が,(多分)ごうごうと水を落としている。
滝はもう1本あり,そうそう,料金は渡っても渡らなくても,往復しても500円也。

阿蘇の根子岳,中・高岳を横目に見ながら下っていて変なものを発見。
ツゲを丸く或いは四角に刈り込むのはよく見るが,
ここには生き物がいっぱい。
多くは鳥だが,双葉山にちなんで木鶏を決め込んだのだろうか。

九州には愉快な人がいっぱいいるようだ。
(走行距離160Km)

爺婆は西へ-2

2012-05-07 14:24:01 | 子どもたちに
 ブロッコリーのてんこ盛り
 4日(金)朝,宇部市の“カッタの湯”を出て別府へ向かう。
天気も良いし,貧乏旅行故,一般道を使う。
山は大笑いの状態で,どこを向いてもブロッコリーがてんこ盛り。
関門トンネルは壁面に番号が振ってあり,36番が県境。

 宇佐神宮
宇佐市に入ってGSで五百羅漢屁の道を尋ねたところ,
まず“宇佐神宮”にお参りしなさいと勧められ後返り。
全国八幡様の総本宮だけあって,広大な敷地を持つ。
お参りを済ませ,かみさんが箸のセットを550円で購入。
次の店は?600円。その隣は?650円。
だから土産は簡単には買えない。

 東光寺=五百羅漢像
更に後がえって五百羅漢様の鎮座する医王院東光寺へ。
麦畑の中にたたずむ小さな寺。賽銭箱も見当たらない。
羅漢様同様,「人はひと,我はわれ,それぞれで結構」
という感じで,疲れを癒やしてくれる小さな庵であった。
年取るごとに“三猿”となりたいものだが,
まだまだ生身の悲しさ,なかなかそうはいかない。




双葉山生家へ
 もう一踏ん張り足を戻して,双葉山生家のある里へ。
生家の跡に小さな道の駅のようなものが出来ていて,
双葉山に関わるグッズを展示している。
広場には60連勝以上の力士の手形があり,比べると,
指は太いが掌は意外と小さい私とあまり変わらない。
ただし,谷風関の指は長かった。


熊野磨崖仏
今まで何度か通過しながら寄れなかった磨崖仏へ。
国東半島胎蔵寺から山道を登ること数百メートル,
鬼が一夜で築いたとされる自然石の石段を登ると
不動明王像と大日如来像が現れる。
この2体を含む石仏群が熊野磨崖仏と言われる。
大日如来像は半立像で高さ6.8m,
不動明王像も半立像で高さ8mで柔和なお顔。

 入山は午後5時までとされているので要注意


 宿は大分市の健康ランドを考えていたが,
別府市を外れかかって大きな温泉マークを発見。
“カッパの湯”という。
雑魚寝ではあったが,畳に布団がありがたかった。
この日の走行は220Km

爺婆は西へ

2012-05-07 02:59:25 | 子どもたちに

 なすすべなく,西へ西へ

 3日(木),子供らから何の連絡もないので夫婦二人で家出を決断。
と言っても,別府をメインに温泉にでも浸かろうか,という程度で,
前夜から宿を探したが,これといった場所は調べた範囲で満室。
いや,一泊二食で2万円以上なら宿は空いているが,財布が開かない。

 安くてアポ無し宿泊OKとなれば,健康ランドに限る。
 あれこれ調べていると出立は午後になる。
下松は行ったことがあるからと,宇部に決定。
自動車道を降りて,道に迷いながら発見したのが,道の駅“きらら あじす”
新鮮な魚介類,野菜,その他の特産品の販売店に,
南蛮料理の食堂がある。帰り道なら魚が欲しかったが,
その代わりに,黄色のジャーマンアイリスを買ってしまった。

 今夜の宿は“カッタの湯”
宇部市の常磐公園に桃色ペリカンのカッタ君がいた。
花火に驚いて家出したが連れ戻され,市民の人気者。
その人気にあやかって命名したらしい(カッタ君は故鳥)
リクライニング椅子での睡眠は少ししんどかった。
が,安いのが何より。

 この日の走行距離は180Km

2011-11-12 07:50:35 | 子どもたちに
 今日は父の命日。
1995年11月12日の早朝に旅立った。3日の誕生日を簡単に祝った後の93歳であった。

 想像するに,苦労したはずなのだが,そうしたそぶりは見せなかった。
12歳で父親(私の祖父)をなくしている。
祖父は,近くの家が火事になったとき,牛小屋の牛を助け出そうとして負傷し,破傷風に罹って亡くなったと聞いている。
その前に,祖父は持ち船2艘のうち1艘は沈没し,もう1艘は船頭が乗り逃げしたそうだから,水面下の生活であったろう。

 私の娘が帰省して,通りがかりの人に「あんた,どこの娘(こ)の?」と聞かれ,「○○です」と答えたが,追加して「◎◎の○○です」と言ったところ,「ああ,にしんでの~。」と。
『で=出』は分家,『西の出』がなまったもので,当然、本家も『ひがしんで』もある。いや,あった。
 もう100年もそれ以上も前のことを聞かされても,聞く機会もなかったから何がどうなのかさっぱりわからない。とにかく『本家』は関西に,『ひがしんで』は広島にと離散した。
抵当に入っていた家作は無く,わずかに残ったものも『摂られては』という親戚の“好意”で名義変更をした。

 父には,姉一人,弟妹各一人の4人きょうだい。学校を出る間もなく親戚の経営する俗称“ちょうせんあみ”に乗って半島近くまで漁に出ていたらしい。
その後呉市で“専売局”に勤めていたというのだが,オート三輪に乗った写真が残っていた。
帰島し産業組合,私が知っている父は農協(JA)に勤務し,毎日1里(4Km)の道を歩いて隣の集落の本店に通っていた。
 何も語らない父であったが,一度だけ
「島を離れて広島に住もうか」
と問われたことがある。
今の家は一部を買い戻して建てたものだと聞いていたし,ふるさとを失うことになると反対した。
だがその時は,形式上名義変更していた土地を“返せ”という話が勤務先にまで及んでいた厳しい時期にあったようだ。
当時の事情を伝えるものは誰も,何も残っていない,息子も当てにならない。
たった一度だけ心の内を吐露したのだが,それを理解する力を私は持っていなかった。

 父の残した文書の中に,父が通信制高校を卒業した資料をつい最近になって見つけた。
姉は司法書士に嫁ぎ,進学させた弟(後に硫黄島で戦死)は役場に勤務し,迎えた嫁は教師。妹は親戚の大卒に嫁し,妻の弟も教師など。
父の思いは,使い古された一冊の漢和辞典が物語っているようだ。

 私を含め,つい,自分の努力だけで大きくなったような気がしている。薄給と母のパート賃で私学に,ときには個人指導を受けさせてもらったことも忘れている。
といって,そうしたことを伝えることは,伝えないことより逆作用をなすことの方が多い,ようだ。

いつの日にか,自分が一人でいるのではないことを,学んでほしいと願っている。

2011-10-21 16:13:05 | 子どもたちに
 親孝行 したいときには

 母が旅立ったのは,1980年10月21日。
1900年(明治33年)生まれであったから,80歳であった。
今日で,逝って31年。
来秋33回忌を迎えることになるが,父の17回忌と併せて年回忌を行った。

 母親(私にとっては祖母)は,京都の出らしいがどのような理由からか両親が離別。
父親が村長をしていたらしいから,気位も高かったろうしそうしたことが原因だろうか。
もう100年もそれ以上も前の話だから,知る人は誰もいない。
弟が一人,継母に弟2人,妹2人。今は,妹一人だけが生存している。

 私の両親は,親戚関係で一緒になっている。
いなか暮らしであったが,父が勤め人であったため,農作業のほとんどは自分の肩にかかった。
二カ所の畑,一カ所の田圃で,イモ,麦類に除虫菊,野菜,それに米を作っていた。
後には葉タバコ,家畜は,牛,馬,山羊,綿羊,アンゴラウサギ,鶏などと,同時進行ではないにしてもこれらの動物に,イヌ,ネコまでいたから家を空けることはなかった。
母は持病=小児からリュウマチをもっていた。

 からだが弱いため,乳母について大事にされたらしいが,和裁を身につけていた。
私は12歳で島を離れて広島で暮らし,たまの日曜と盆・正月に帰宅する程度であったが,
特に盆前と暮れには縫物が殺到し,夜なべで縫い上げることも多々あった。
父は地元の漁師を嫌っていたようだが,母は誰彼と区別なく親しくつきあっていた。
そのお蔭で帰宅した時には,いつも新鮮な魚を口にすることができた。
魚の嫌いな母の生活の知恵であったのであろう。
母の棺は自宅から浜辺の火葬場まで運ばれたが,自宅に来られなかった多くの人が道ばたで送ってくれた。
このとき,土やほこりにまみれた姿とは別の,本当の母の姿を見た思いがした。

 ようやく車を持って生活も何とか落ち着き,山口県の俵山温泉に一緒することが何度かあった。
島からは5時間もそれ以上もかかる道のり。
出発する前,母は決してお茶の類いを口にしなかった。ご不浄に困るから,と。
喫茶店で休憩するときも,車の中で待っていてくれた。さぞ,つらかったろうに。

 島から外に出ることがほとんどなかった母だが,家内の出産の折にはいち早く見舞ってくれた。
そうだった,島から県央の世羅まで訪ねてきてくれたこともあった。
「どうやって?」家内の問いに対して,
自宅からバス停まで1里は徒歩,呉駅からは国鉄で海田駅乗り換え,河内駅からバス。
「世羅では?」
『K先生のお宅は』と訪ねたという。
こんなおばあさんがお母さんか,と,恥をかかせてはという母親の思いからであった。

 私の長男と今年旅立った母との年齢差が44、母と家内は49歳開いていた。
その差がそうさせたのか,二人は一言も口論することなく過ごしてくれた。
家内も,遠い道のりを島に帰ることをいとわなかった。
いや,一度だけ注意されたといっていたかな。
(洗濯のすんだ)おむつをテーブルに載せていたとき,
そろそろお父さんが帰る時間だから片付けなさいよ,と。

 母の葬儀の後菩提寺にお参りしたとき,ルンビニ幼稚園に通っていた子供たち3人が,
『十二禮の歌』を唱和してお供えしてくれた。
私が母に返してやれたのは,この程度のことであったか。
このたびは神奈川から帰った次男が,仏壇を清拭し,畳を,そして窓ガラスを拭いてくれた。
誰が頼んだわけでもない。ありがたかった。
母の残してくれた宝物と受け取っている。

 個人の内容をブログに載せることについて,いささかの抵抗はあった。
私たちには,今の自分たちの生活は自力で築いたもの,と誤ることがある。
私は,祖父母のことはほとんど知らない。曾祖父母に至っては全く知識を持っていない。
だが,1代前は2人、2代前は合計6人と計算すると,9代前で千人を超える人と関わりを持つ。
その誰もが,その時々に応じた努力をして生活してきた。
自分一人ではない,数多くの人とつながっているのだということを知ってほしい。
子供が,孫が,これを読むことがあって,何かを感じてくれたらと,敢えて書き綴った。