ありがとう 崇徳学園宗教科
春のお彼岸が近づき,寒さも和らぎ始め,少しずつ過ごしやすくなってきました。みなさんにとってこの1年はいかがだったでしょうか。勉学やクラブ活動に励み,趣味に時間を費やし,家族や友達と貴重な時間を過ごし,充実した一年だったと思います。
過ぎてしまえば一年は早く感じられるものです。一日はもっと早く,朝食を食べ,登校し,授業を受け,昼食を食べ,友達と会話し,帰宅して夕食を食べるというように,あっという間に過ぎてしまいます。あまりにも当たり前すぎて何も不思議に感じることなく過ぎ去っていますが,よく考えてみると,家族や友人をはじめ
数えきれない多くの人々のお蔭と,食事のたびに頂くいのちのお蔭により,今日まで生かされてきたということに気づくはずです。
『いただきま~す』
ぼくは パクパク なんでも食べる
今日の給食 カレーライス
にんじん たまねぎ じゃがいもさん
皮を むかれて 切られて 煮られて
いたかったでしょう あつかったでしょう
にわとりさんも ありがとう
カレー粉入れられ 辛かった?
つけものさんは 塩でもまれて
大きな石をのせられて 重いよね
みんな みんな ありがとう
大切な いのちを ありがとう
いただきま~す
みんなの いのちを いただきま~す
パクパク食べて ぼくは 元気なからだ
「いきているってふしぎだね」よしいけ 道 著
この詩を読むと心が痛み,食事をするのも躊躇されます。しかし,食さないわけにはいきません。多くの「いのち」を戴かないと,この私の「いのち」が維持できないことを,どれだけ自覚しているのでしょうか。食事の時に「いただきます」「ごちそうさまでした」と手を合わせるのは,「ありがとうございます」「戴いたいのちを粗末にしません」「今を精一杯がんばります」と,その「いのち」への感謝と慚愧を明らかに示すものです。
私の「いのち」は,多くの「いのち」の犠牲の上にあるのです。戴いた「いのち」に対して感謝せずにはいられないし,粗末にすることもできません。勿論,家族や,そして周りの友だちの「いのち」のすべて粗末にすることはできないのです。
私たちは,有り難いことに崇徳学園で学んでいます。崇徳という学校をご縁として結ばれている仲間なのです。「ありがたい」(有り難い)とは,「有ることが難い」(なかなかない)めったに会うことができないという意味です。出会いをよろこび,お互いを尊重し合い,「いのち」を大切にしていかなければなりません。しかし,自分の都合や自分にとって損か得かという価値基準で行動してしまうと,周りの人を傷つけ,「いのち」を粗末にすることにもつながりかねません。これは絶対に許すことができないのです。
学年末という一つの節目を迎えています。かけがえのない自他の「いのち」を大切にしているかを改めて見つめ直す良い機会です。新しく始まる新学年で,報恩感謝の生活,「ありがとう」と感謝の気持ちが素直に言える生活ができるよう,この一年をしっかり振り返り.締め括ってほしいと思います。《担当;T 》
三月も末だというのに,なかなか暖かくならない。農業塾OBの abusan も,野菜や苗が寒さで損傷を受ける,と嘆いておられた。
今日は白木農園で小麦の除草,里芋の植え付け準備の予定であったが,昨日からの雪で作業は中止。
三月初めに発行された「宗教だより」のタイピングにかかった。
昨夜は母を見舞った長男が顔を見せてくれて,姉から預かっていた孫への年玉を渡す。
今春入学する孫にも祝いが届けられたとか。爺婆より早い対応に恐縮する。
例の九州への旅の整理,写真の整理などすることはいくらもあるのだが,なかなかはかどらない。