泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

聖徳太子・達磨大師という異色の組み合わせの伝承を残す 「達磨寺」

2016年07月28日 15時44分03秒 | 歴史

奈良県北葛城郡王寺町本町にある「達磨寺」は、『日本書紀』によると推古天皇21年(613)12月、「聖徳太子」が道のほとりに伏せっていた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くなりました。このことを大いに悲しんだ「聖徳太子」は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。この飢人が、のちに「達磨大師」の化身と考えられるようになり、「達磨寺」は生まれました。

今回は、「聖徳太子」・「達磨大師」という異色の組み合わせの伝承を残す、「達磨寺」を紹介したいと思います。

「聖徳太子」と「達磨大師」の出会いからはじまった「達磨寺」には、今も本堂の下に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があります。これが、「聖徳太子」が飢人のためにつくったお墓、すなわち「達磨大師」の墓とされ、鎌倉時代にその上にお堂が建てられました。本尊として堂内に聖徳太子像と達磨大師像が安置されました。本堂の中尊に祀られているのが千手観音像です。392本の手があり、手のひらには水晶で表現された目があります。堂内にはほかにも国の重要文化財に指定されている聖徳太子坐像や達磨坐像などが安置されており、ここからも「達磨寺」が「聖徳太子」や「達磨大師」と深いつながりを持っていることがうかがえます。

本堂の下に残る達磨寺3号墳については、さらに驚きの調査結果も出ています。いまから十数年前、本堂の改築工事にともなっておこなわれた本堂下の発掘調査により、達磨寺3号墳からは石塔が出土しています。石塔の内部には鎌倉時代の作と考えられている水晶製五輪塔形舎利容器がおさめられており、達磨寺3号墳が特別な古墳として人々に崇められてきたことがうかがえます。

「達磨寺」の境内には、達磨寺1号墳・2号墳・3号墳と称される3基の古墳(6世紀頃の築造)が存在し、このうちの3号墳の上に本堂が建てられています。この古墳は、平安時代には「聖徳太子」ゆかりの「達磨大師」の塚であると信じられていたようです。他にも2基の古墳が残されています。本堂の北東に位置する達磨寺1号墳には東に向けて開口する横穴式石室があり、太子がこの横穴を使って「法隆寺」と「達磨寺」とを行き来していたといういい伝えも残されています。

「達磨寺」には、他にもご覧いただきたいスポットがいくつかあります。

境内の西側に安置されている「雪丸」像です。「雪丸」は聖徳太子の愛犬であったといわれています。江戸時代にまとめられた『大和名所図会』所収の「達磨寺」の項目をひもとくと、当時は達磨寺1号墳の墳頂に安置されており、達磨寺1号墳はかつて「雪丸」を埋葬した古墳であると見なされていました。「雪丸」は、現在、王寺町のマスコットキャラクターとなっており、その石像をもとにして作られた「雪丸」像を町内各地で目にすることができます。

「雪丸」像のそばには、戦国大名「松永久秀」の墓所をみることができます。「松永久秀」といえば、織田信長の上洛以前に畿内を支配していた戦国大名・三好長慶の重臣でありながら、次第に長慶を圧倒し、長慶の死後は三好家を没落させた下克上の典型的な人物です。「松永久秀」は、信貴山城にて織田軍に包囲さて自害しました。そのさいに、筒井氏が首級をこの地に埋葬したと伝えられています。他にも、「問答石」や「一夜竹」等見どころいっぱいのお寺です。

「聖徳太子」・「達磨大師」という異色の組み合わせの伝承を残す「達磨寺」は、古代史の魅力がいっぱいの場所でした!

                                    

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