2020年東京オリンピック招致が決まった。
おめでたムード一杯の中、いじけて水を差すつもりはないが、今の私の正直な気持ちを書いておきたい。
再発治療中の身、7年後に命を繋げているかどうか、何の保証も、自信も、ない。
もちろん、このまま上手くコントロール出来て、“細く長くしぶとく”というモットーどおり、生きているかもしれない。その時、この記事を見つけて笑い飛ばしているかもしれないし、もしその時もなお読んでくださっている方がいらしたら、その方たちからも笑われているかもしれない。
7年後、2020年。
7月にあった“HER2 Station”の講演では、2020年はHER2乳がん撲滅を目指す年とも聞いた。そこまで生き伸びられれば、完治も夢ではなくなっているのかもしれない。
けれど、それまでの7年間、どんな歩みをして命を繋ぐのか、それがいまだ見えない。普通の生活をしていても、いざ急変すれば1年ももたなかった、という方たちを何人も見てきた。5年8か月前の再発告知以来、いや8年半前の初発以来、10年後の自分をイメージすることが容易くは出来なくなっている。
もちろん、7年という月日は決して短くはないから、病を抱えている身でなくとも不慮の事故や天災等に襲われることは、誰にとっても起きうることであるかもしれない。そうはいうものの、今、現に健康で暮らしている方たちにとって、7年後自分が生きているかどうかなどと真剣に悩むことはそれほどないだろう。
それはとても幸せなことなのだ、と是非心の隅に置いておいて頂きたいな、と願う。
現に息子は「24歳か~。普通にしていれば働いているよな。休みを取って自分でチケットを買って何を観に行こうかな。お母さんは何が観たい?」と何の屈託もなく訊いてくる。
「そうね~、お母さんは生きているかな~。生きていてもそんな人混みには出て行けないから、家でのんびりテレビ観戦かな。」と応ずる。
7年後、普通に暮らしていることが出来れば、59歳。退職する年齢でもなく、まだ現役だ。さすがに、そろそろ退職準備をしている齢ではあるけれど。
私が定年退職するのは2021年度末、2022年3月31日だ。その後も元気ならば、年金受給開始年齢の65歳まで、再任用、再雇用職員として仕事を継続する職員が大半だ。
何度も書いているが、再発が判った時、漠然とあと5年かな・・・と思った。だから息子が高校を卒業する姿はおそらく見られまい、と覚悟した。が、その卒業式があと半年後に迫っている。これは何とかクリア出来そうだ。そして、2年後の成人式も夢ではないかもしれない、と欲張りにも思う。
けれど、その先、彼が大学を卒業して、出来れば彼女の顔も拝んで、卒業して、就職して、結婚して、果ては孫の姿・・・まではやはりリアルに思い浮かべることが、哀しいかな、出来ない。それがこの2020年、7年後、とも重なる。
息子が小さかった頃、まだ死ねない、と思った。
けれど、こうして再発治療とともに高3まで生き伸びることが出来、小学生だった時に感じていたあの焦燥感は、随分落ち着いてきたようにも思う。
もちろん治療を投げているわけでは、決してない。が、ベッドから起き上がることすら出来なくなるような辛い治療を続けていきながら、数カ月単位の延命をすることが、果たしてどうか、という心の揺れは正直、隠せない。
治療の辛さを知らず、とりあえず出来る治療は全て受け、立ち向かっていかねばならないと思った当時と比べ、今、こうして数々の治療を続けてきて、そして、これからも延々と続く治療を想い、ずっと気持ちを奮い立たせ続けていけるのだろうか、という心の揺れがある。
辛い治療を続けて行くために目標を持つことが必要だということ、そんなことは十分判っている。けれど、2020年に東京オリンピックを観戦する、ということは今の私にとって確固たる目標にはならない。
1964年の東京オリンピックの時は3歳だった。残念ながら殆ど記憶に残っていない。
平均寿命まで生きられるなら、自分が住む街で2回のオリンピックをこの目で見ることが出来るという、ごく限られた恵まれた世代である筈なのに。
7年後、2020年。
準備をする側からいえば、7年という期間は決して十分な時間ではないだろう。課題や仕事は山積である。未来を担う子どもたちに明るい夢と希望を持ってもらうこと、都心のバリアフリー化が進むこと、それは素晴らしいことだ、と素直に思う。
そして、何より決まったからには万全の準備をして、世界中のアスリート、観客の方たちを精一杯おもてなしして、「再び東京でオリンピックが開かれて良かった」と思って頂きたい、とも思う。と同時に、これからこの仕事に携わる職員・関係者の苦労を想うと、本当に頭が下がる。
一方、7年後、この国の震災復興がどれほど進んでいるか、フクシマがどうなっているのか。お祭りムードの中、そうした地道にやらなければならないこと、行政がやるべき本当に大切なこと、を口に出すことが憚られるような社会にはなってほしくない、と心から思う。
新しい1週間が始まった。最高気温28度。秋らしい爽やかな日だ。
週の初めから午前と午後に会議が一つずつ。今週は都心出張会議もあり、通院日もあり。また気づけばあたふたと過ぎてしまいそうである。
おめでたムード一杯の中、いじけて水を差すつもりはないが、今の私の正直な気持ちを書いておきたい。
再発治療中の身、7年後に命を繋げているかどうか、何の保証も、自信も、ない。
もちろん、このまま上手くコントロール出来て、“細く長くしぶとく”というモットーどおり、生きているかもしれない。その時、この記事を見つけて笑い飛ばしているかもしれないし、もしその時もなお読んでくださっている方がいらしたら、その方たちからも笑われているかもしれない。
7年後、2020年。
7月にあった“HER2 Station”の講演では、2020年はHER2乳がん撲滅を目指す年とも聞いた。そこまで生き伸びられれば、完治も夢ではなくなっているのかもしれない。
けれど、それまでの7年間、どんな歩みをして命を繋ぐのか、それがいまだ見えない。普通の生活をしていても、いざ急変すれば1年ももたなかった、という方たちを何人も見てきた。5年8か月前の再発告知以来、いや8年半前の初発以来、10年後の自分をイメージすることが容易くは出来なくなっている。
もちろん、7年という月日は決して短くはないから、病を抱えている身でなくとも不慮の事故や天災等に襲われることは、誰にとっても起きうることであるかもしれない。そうはいうものの、今、現に健康で暮らしている方たちにとって、7年後自分が生きているかどうかなどと真剣に悩むことはそれほどないだろう。
それはとても幸せなことなのだ、と是非心の隅に置いておいて頂きたいな、と願う。
現に息子は「24歳か~。普通にしていれば働いているよな。休みを取って自分でチケットを買って何を観に行こうかな。お母さんは何が観たい?」と何の屈託もなく訊いてくる。
「そうね~、お母さんは生きているかな~。生きていてもそんな人混みには出て行けないから、家でのんびりテレビ観戦かな。」と応ずる。
7年後、普通に暮らしていることが出来れば、59歳。退職する年齢でもなく、まだ現役だ。さすがに、そろそろ退職準備をしている齢ではあるけれど。
私が定年退職するのは2021年度末、2022年3月31日だ。その後も元気ならば、年金受給開始年齢の65歳まで、再任用、再雇用職員として仕事を継続する職員が大半だ。
何度も書いているが、再発が判った時、漠然とあと5年かな・・・と思った。だから息子が高校を卒業する姿はおそらく見られまい、と覚悟した。が、その卒業式があと半年後に迫っている。これは何とかクリア出来そうだ。そして、2年後の成人式も夢ではないかもしれない、と欲張りにも思う。
けれど、その先、彼が大学を卒業して、出来れば彼女の顔も拝んで、卒業して、就職して、結婚して、果ては孫の姿・・・まではやはりリアルに思い浮かべることが、哀しいかな、出来ない。それがこの2020年、7年後、とも重なる。
息子が小さかった頃、まだ死ねない、と思った。
けれど、こうして再発治療とともに高3まで生き伸びることが出来、小学生だった時に感じていたあの焦燥感は、随分落ち着いてきたようにも思う。
もちろん治療を投げているわけでは、決してない。が、ベッドから起き上がることすら出来なくなるような辛い治療を続けていきながら、数カ月単位の延命をすることが、果たしてどうか、という心の揺れは正直、隠せない。
治療の辛さを知らず、とりあえず出来る治療は全て受け、立ち向かっていかねばならないと思った当時と比べ、今、こうして数々の治療を続けてきて、そして、これからも延々と続く治療を想い、ずっと気持ちを奮い立たせ続けていけるのだろうか、という心の揺れがある。
辛い治療を続けて行くために目標を持つことが必要だということ、そんなことは十分判っている。けれど、2020年に東京オリンピックを観戦する、ということは今の私にとって確固たる目標にはならない。
1964年の東京オリンピックの時は3歳だった。残念ながら殆ど記憶に残っていない。
平均寿命まで生きられるなら、自分が住む街で2回のオリンピックをこの目で見ることが出来るという、ごく限られた恵まれた世代である筈なのに。
7年後、2020年。
準備をする側からいえば、7年という期間は決して十分な時間ではないだろう。課題や仕事は山積である。未来を担う子どもたちに明るい夢と希望を持ってもらうこと、都心のバリアフリー化が進むこと、それは素晴らしいことだ、と素直に思う。
そして、何より決まったからには万全の準備をして、世界中のアスリート、観客の方たちを精一杯おもてなしして、「再び東京でオリンピックが開かれて良かった」と思って頂きたい、とも思う。と同時に、これからこの仕事に携わる職員・関係者の苦労を想うと、本当に頭が下がる。
一方、7年後、この国の震災復興がどれほど進んでいるか、フクシマがどうなっているのか。お祭りムードの中、そうした地道にやらなければならないこと、行政がやるべき本当に大切なこと、を口に出すことが憚られるような社会にはなってほしくない、と心から思う。
新しい1週間が始まった。最高気温28度。秋らしい爽やかな日だ。
週の初めから午前と午後に会議が一つずつ。今週は都心出張会議もあり、通院日もあり。また気づけばあたふたと過ぎてしまいそうである。
ロッキングチェアさん、ずーっとずっと応援しています♪
miyukiさんのお母様はmiyukiさんが7年後に迎えるお歳でお亡くなりになっていたのですね・・・。
そうだったのですか。知らなくて・・・ごめんなさい。
そう、おっしゃるとおり、その時その時、今、何が大切なのか考えますよね。
一生懸命出来る限りのことをお嬢さんに伝えたい、そうして頑張っておられるmiyukiさんのお姿をお嬢さんは間違いなくしっかりご覧になって、いろいろ受け取っていらっしゃることでしょうね。
私はいろいろ伝えておくべきこと、伝えておきたいこと、息子にちゃんと伝えられているのかな・・・ちょっと自信ないですね。
オリンピックは目標にならない、なんて言い切ってしまいましたが、1日1日を積み重ね、1年1年しぶとく生きていけば、気付けば7年経っているかもしれませんね。今だってこうして目標の5年以上過ごせてきたのですから。その時はちゃっかりミーハーにテレビ観戦しているかもしれないですね。
いつも応援して頂き、どうもありがとうございます。
いつも 共感を持って 拝読させていただいています。
私は 子どもが小学2年生・6年生の13年前に左乳房全摘し 抗がん剤・ホルモン療法を受けました。
8年後に再発し 再手術を受け 抗がん剤・ホルモン療法・放射線治療を受け さらに12年目に肺転移し 3度目の手術を受け 現在はホルモン療法で様子を見ています。
2020年オリンピック招致で沸く報道を観て へそ曲がりな私は 暗澹たる思いでした。
今までは 家族のために…どんな治療も耐えてきましたが 子どもたちも成人し これからは自分のために生きよう…と決心(笑)しています。
治るのならともかく… 延命のための辛すぎる治療は回避し 心穏やかに 来たるべき時を迎えたい…と 願っています。
食道がんを告知されず 壮絶な闘病をし ボロボロになって亡くなった父の年齢を越え 「死」も特別に恐ろしいものではなくなりました…(笑)
お母さまの想いは ご子息に伝わっていると思います。今すぐ…なものは少なく 彼が人生を歩んでいく途上で 気付かれることが 多いのではないかと…。
要は こちらの心がけ次第…。
私は そんな風に のんきに考えております。
ヘトヘトにならない程度に… そこそこ(笑)頑張って 日々を楽しんでまいりたいものですね。
はじめまして。お読み頂きどうもありがとうございます。
ねこさんは13年前に初発、とのこと、私より5年も先輩、この病気の14年生でいらっしゃるのですね。
そして、8年後に再発・・・10年の節目までもう少し、と思っていらしたでしょうから、どんなにかショックが大きかったでしょう。ということは、再発治療のスタートは私とほぼ同時期でしょうか。
そして12年後の昨年、肺転移されたのですね・・・。手術も3度されているとのこと、本当に長いことお辛い治療を続けてこられたのですね。
ご家族のためにいろいろな治療を耐えていらしたのですね。大変なことでした。
そんな中、子育てと再発治療の二足の草鞋を両立されて、お二人のお子様を無事成人させられたとのこと、本当にお疲れ様でした。ご立派です。頭が下がります。
おっしゃるとおり、これからは自分のために生きる、そうですよね。誰のものでもない自分の人生ですものね。治るならともかく・・・実に同感です。延命のためだけの辛すぎる治療はやはり長続きしないように思います。少しでもマイルドに心穏やかに、体を苛めすぎないようにのらりくらりと共存出来たらいいな、と思うのは虫が良すぎるのでしょうか。
ねこさんはお父様も大変な闘病をされたのですね・・・。そのお父様のお歳を超えられたとのこと、私はおかげさまで両親が健在ですので、親を喪うという哀しみにまだ対峙したことがありません。
強いて言えば、今の私の目標は親より先に逝かない、ということでしょうか。これまたわかりませんが、85歳と80歳の両親が7年後のオリンピックを観る迄頑張ろう、と2人で言い合っているのではないか、とそれがちょっと怖いです(笑)。
そして、もう一つ、終末期に緩和ケア病棟に入院するのは止むなしかもしれませんが、出来ればキツい治療の副作用でこれ以上緊急入院はしない、ということです。
どんなに代わってやろうとしても息子の人生は、他の誰のものでもない息子の人生。やはり本人が気付かなければどうしようもないことは多いですものね。
そんなふうに心がけていれば、いずれ通じるものでしょうか。
のんきだなんてとんでもありません。とても達観していらっしゃって素晴らしいです。学ばせて頂きました。
我ながらヘタレではありますが、ヘトヘトになる治療は、もうNo,thank you.かな、と思います。そうそう、そこそこに頑張って、上手く共存していけるのが理想です。
ありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。