ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2015.6.13 “壮絶な闘病”ではなく、“穏やかな共存”

2015-06-13 20:16:21 | 日記
 ある雑誌から依頼された原稿の最終回分を提出した。既にレイアウトの初校確認も済んだが、発行は7月末。
 思いもかけず「3回連続で闘病記を書いてほしい」という依頼を頂き、これ迄の10年半の経緯をまとめて綴る機会に恵まれ、とても有難いことだと思っている。
 もちろん、色々思い出すにつけ、辛いことがないわけではない。けれど、こうして自分なりに来し方を振り返り、客観的に今の状況をまとめることが出来て、より一層気持ちの整理がついたと素直に感謝している。

 実は私は“闘病”という言葉は好きではない。だから一般的に“闘病記ブログ”と称されるのもあまり嬉しくない。常に戦闘態勢である、とも思っていない。
 この10年半の間、治療を欠かしたことはないし、完治しない進行再発がんを抱える患者ではあることは間違いないし、健康ならば経験しなくて済むような、それなりに大変な時間を過ごしてきた。
 けれど、“壮絶な闘病生活”などと紋切型に評されるのにはとても違和感があるし、“壮絶”という言葉も、“闘病”という言葉も、どちらも好きではない。

 私としては、自分の毎日は、壮絶な闘病生活(痛みや苦痛に歯を食いしばって耐えながらヨレヨレになりながらもNever give up!で何度も立ちあがるイメージ)などではなく、出来るだけ日々心穏やかに過ごすために、少しでも長く病と共存すべく身体にマイルドな治療を続ける生活(ごく普通の日々を大切に、淡々と過ごしているイメージ)である、と考えている。

 治療開始当初はまだ体力があったし、最初の抗がん剤は一般的にはセカンドライン、サードラインの薬よりもシャープに効くものだから、キツいのを承知で治療を受けた。
 けれど、こうして長いことエンドレスの治療を続けてきて、あれこれ辛い思い、切ない経験も経て、再び当時と同じ治療を受けろと言われても、とても首を縦に振れない。
 どんなにキツくても大丈夫、治すために頑張って耐える、というそれこそ壮絶な闘病を正面から受けて立つという姿勢は、再発した段階で、既になくなっている。
 完治しないことを納得した上でのいわゆる延命治療だから、なるべくQOLを下げずに今の生活を長く続けられる為の治療、身体に出来るだけ負担のかからない治療でなければならない。
 このヤワな身体を必要以上に痛めつけていくよりも、少しでもマイルドな治療をだましだまし出来るだけ長く続ける方が、結局のところ、“細く長くしぶとく”というモットー通り、普通に動くことの出来る生存期間が長くなるような、粘れるような気がするのだが、どうだろう。

 だから、壮絶な再発治療、闘病記をイメージして読んで頂くと、私の日々の記事は実に面白くも痒くもないものだろうと思う。
 けれど、このブログは他人(ひと)様から面白く読んで頂くためのエンターテイメントを目指すものではない。
 あくまでも淡々と、私らしく、大切な日々を少しでも長く綴っていきたいのである。
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