四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

渋沢栄一生地 旧渋沢邸「中の家」(埼玉県深谷市)

2020年06月03日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:渋沢栄一生地 旧渋沢邸「中の家」
   (しぶさわえいいちせいち きゅうしぶさわてい「なかんち」)
上 棟:明治28年(1895)
構 造:切妻造り2階建て
指 定:埼玉県指定旧跡(名称:渋沢栄一生地 昭和58年(1983)9月22日指定)
    本庄市指定史跡(名称:旧渋沢邸「中の家」 平成22年(2010)2月10日指定)
             ※ 埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」非該当部分を指定
現 況:学校法人青淵塾渋沢国際学園」の解散により深谷市に帰属
所在地:埼玉県深谷市血洗島247-1(旧深谷市)

「中の家」の歴史
 この屋敷は、渋沢家の住宅等として使われてきたもので、通称「中の家(なかんち)」と呼ば
れている。
 渋沢一族はこの地の開拓者のひとつとされるが、分家して数々の家を起こした。「中の家」も
その一つで、この呼び名は、各渋沢家の家の位置関係に由来するものである。代々当主は、市郎
右衛門を名乗っていたが、古くは、新七郎(安邦)の名まで知られている。
 中の家は、代々農業を営んでいたが「名字帯刀」を許され、市郎右衛門(元助)のときには、
養蚕や藍玉づくりとその販売のほか、雑貨屋・質屋業も兼ねてたいへん裕福であった。この家に、
後に日本近代資本主義の父と呼ばれる栄一が生まれた。
 現在に残る主屋は、明治28年(1895)、市郎により上棟されたものである。梁間5間、桁行9
間の切妻造の2階建、西側に3間×3間の平屋部分等を持つ。また、主屋を囲むように副屋、土蔵
、正門、東門が建ち、当時の北武蔵における養蚕農家屋敷の形をよくとどめている。
 栄一は、多忙の合間も時間をつくり年に数回はこの家に帰郷した。東京飛鳥山の栄一の私邸は、
空襲によって焼失したため、この家は現在残る栄一が親しく立ち寄った数少ない場所といえる。
 また、中の家は、元治、治太郎たちの人材を輩出した。
 昭和58年からは「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、多くの外国人留
学生が学んだ。平成12年、同法人の解散により深谷市に帰属した。
 昭和26年、埼玉県指定史跡に指定。昭和58年、埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」に指定替えさ
れた。平成22年、主屋を中心とした範囲を深谷市指定史跡に指定。 《以下省略》

パンフレット 
埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」旧渋沢邸「中の家(なかんち)」から




2024年度前半に千円、5千円、1万円の各紙幣(日本銀行券)を一新させ、千円札の図柄は北里柴三
郎、5千円札は津田梅子、1万円札は渋沢栄一になると発表(令和元年4月9日)されてから最初の土
曜日であったことから、沢山の方が、旧渋沢邸・渋沢栄一生地「中の家」の見学に訪れていました。
ガラス戸が開け放たれ、家屋内の見物もできましたし、ボランティアの方の説明や、パンフレット
の配布もありました。

近代日本経済の父  渋沢栄一
 近代日本経済の父渋沢栄一は、天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島(現在の深谷市血洗島)
の農家に生まれました。幼い頃から家業の藍玉の製造・販売や養蚕を手伝い、7歳になるといとこ
の尾高惇忠のもとへ論語をはじめとする学問を習いに通いました。
 20代で討幕思想を抱き、惇忠や惇忠の弟長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城乗っ取り
などを計画しましたが、時の情勢に詳しい長七郎の説得により中止、その後、喜作とともに京都に
向かい、一橋(徳川)慶喜に仕えることになりました。27歳の時、慶喜の弟徳川昭武の随行でパリ
万国博覧会などを視察し、欧州諸国の実情に触れることができました。大政奉還により帰国後、明
治政府の大蔵省に仕官。明治6年(1873)に大蔵省を辞めた後、実業界で企業の創設・育成に注力
、「道徳経済合一説」を唱え、第一国立銀行をはじめとする500あまりの企業の設立に関わり、ま
た約600の教育・社会福祉事業の支援と民間外交にも熱心に取り組み、数々の功績を残しました。

パンフレット
埼玉ゆかりの3偉人渋沢栄一 塙保己一 荻野吟子をつなぐ「MAP&情報」から抜粋




渋沢栄一が、新1万円札の図柄になることが発表される約9年前の平成22年(2010)7月に、見学し
た「中の家」です。
この日は日曜日であったにも関わらず、「中の家」の見学に訪れる方はほんの僅かでしたし、ボラ
ンティアの方もおらず、ガラス戸越しに屋内を覗くのが精一杯でした。
数々の業績を遺し、「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一ですが、その名を知る人は少なかっ
たようです。
新1万円札の図柄になることが発表され、渋沢栄一の名を知るとともに、その業績を知って驚いた人
も多いことでしょう。




最奥の部屋が渋沢栄一の部屋で、帰郷する栄一のために義弟の市郎が念入りに作らせた。




「中の家」に複数ある土蔵のうちの1棟 
渋沢家の基盤は染物原料である藍の商いにあったと言われ、藍玉の製造・貯蔵場として使われてい
たと伝えられる土蔵




若き頃の渋沢栄一の銅像  栄一の身長は150㎝程と言われ小柄であった




正門の西方にある『副屋』
現在の副屋は明治44年に上棟。それ以前は藍玉の取引に使われていたのか「お店」と呼ばれていた。




副屋の前に建つ渋沢栄一につての説明板
大分色褪せてしまっていますが・・・




深谷市下手計1204に所在する「渋沢栄一記念館」
10年前にも訪れていましたが、この日はその時とは比較にならない混雑ぶりでした。




入館してすぐ目に付くのが「祝 渋沢栄一翁 一万円札へ」と入った大きな写真




記念館裏手にある「渋沢栄一像」




JR深谷駅前の「渋沢栄一銅像」  「青淵」(せいえん)とは渋沢栄一の雅号




日本銀行本店からほど近い場所で、江戸城の城門の一つ常盤橋門があったところにある
常盤橋公園(東京都千代田区大手町2丁目7)に建つ「渋沢栄一銅像」
近代日本経済の父にふさわしく、日本銀行を背に、大手町のビジネス街を見守るように堂々と立っ
ています。

散策日:令和元年(2019)4月13日(土)ほか写真の日付の日

塙保己一の生家(埼玉県本庄市)

2020年06月02日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:塙保己一旧宅(はなわほきいちきゅうたく)
年 代:江戸中期
構 造:茅葺木像2階建
指 定:国指定史跡(名称:塙保己一旧宅 昭和19年(1944)11月13日指定)
所在地:埼玉県本庄市児玉町保木野325 (旧児玉郡児玉町)

江戸時代の国学者塙保己一の生家を訪ねてみました。史跡名や説明板では「旧宅」と称されていま
すが、「生家」の方がしっくりするような気がしますので、あえてタイトルは「塙保己一生家」と
しました。
塙保己一は、近代日本経済の父と評される渋沢栄一、近代日本における最初の女性医師荻野吟子と
ともに、埼玉県が生んだ三偉人の一人とされています。
塙は師の雨富須賀一の本姓を用いたもので、荻野(おぎの)氏の出自です。

渋沢栄一は、保己一が編さん『群書類従』の版木17,000以上を社団法人温故学会が所蔵管理してい
ますが、渋沢栄一は、この温故学会の設立にも関わっています。
また、日本最初の公認女性医師である荻野吟子は、明治初期には女性医師の前例が無いと門戸を閉
ざされていました。しかし、塙保己一 が出版した「令義解」(りょうのぎげ)の「医疾令」(いし
つりょ)」の中に「女医」の記述があり、そこには女性の医師についての規定があったのです。
これが、「日本にも女性の医師がいた」という吟子の主張の根拠となったのです。
このように、三人が単に埼玉出身ということではなく、このような繋がりもあったわけです




塙保己一旧宅説明板

塙保己一旧宅  昭和19年11月13日  国指定史跡
塙保己一は、延享3年(1746年)5月5日武蔵国児玉郡保木野村(現在の児玉町大字保木野)に生
まれる。7歳にして失明し、15歳のとき江戸へ出て、雨宮検校の弟子になり、先生の許しを得て
学問の勉強をしました。生来の記憶力のよさと努力により、賀茂真淵らのよき学者に指導を受け、
国学を研究し、寛政5年(1793)に幕府に申し出て、和学講談所を創立し、安永8年(1779)から
40年間かけて群書類従を編さん刊行するなど、学問上多大な貢献をし、文政4年(1821)総検校
となり、この年9月12日76歳で亡くなりました。この旧宅は、保己一が生誕し幼時を過ごした
もので、茅葺き二階建てで、向かって左側に田字形の部屋、右側に土間、厩(現物置)等があり、
後世に若干の増築や補修の箇所があるもののよく当時の姿を残しています。  
                平成2年3月吉日  
                        埼玉県教育委員会  児玉町教育委員会




塙保己一の生家(旧宅)は、保己一の弟・卯右衛門の子孫が現住しており、家屋・敷地内には入れ
ませんが、庭と畑の間から家屋を見ることはでき、間取り図が付記された説明板が設置されていま
す(下の写真)




国指定史跡 塙保己一旧宅  昭和19年11月13日指定

 塙保己一旧宅(母屋)は、父卯兵衛の代に建てられたと伝えられるところから、その建築年代は
保己一が生まれた延享3年(1746)より幾分遡るものと考えられる。この旧宅の古い形態は、桁行
7間半、梁行4間の茅葺きの入母屋造りであり、3室広間型の平面形をもつ江戸中期の上層農家の
形態を窺うことのできる建築物として貴重である。




生家の裏手西側にある『塙保己一公園』




塙保己一公園の駐車場わきに設置の看板




『塙先生 百年祭記念碑』

【碑陽】
題額:横書2行で      塙 先 生
            百年祭記念碑
碑文:縦書 (省略)
    大正十一年九月十二日
             正三位勲一等子爵 澁澤榮一            題額
             東京帝国大学名誉教授従三位勲二等文学博士 芳賀矢一 撰
             御歌所寄人正五位勲四等 坂 正臣          書
                                 児玉町 伊藤仁作 刻
【碑陰】
    大正十二年四月十二日
     贈正四位塙保己一先生遺蹟保存会建之




塙先生百年蔡記念碑について




『塙保己一墓』
塙保己一の本来の墓は、東京・四谷の愛染院にあるとのことで、元は同じ四谷の安楽寺に埋葬され
たそうです。生家近くにあるこの墓は、四谷の安楽寺の墳墓の土を生家の荻野家が持ち帰って先祖
累代の墓地に碑を建てて慰霊したのが始まりで、その後、明治44年に従来の位置に移転したとされ
ています。更に平成24年に現在の場所に移転されました。

墓碑には次のように印刻されています。

 和學院殿心眼智光大居士
 うき島か原にて
 言の葉のおよはぬ身には目に見ぬも
 なかなかよしや雪のふしの嶺 保己一

散策日:令和元年(2019)5月25日(土)

東石清水八幡神社(埼玉県本庄市)

2020年06月01日 | 神社仏閣


社 号:八幡神社(はちまんじんじゃ)
別 称:東石清水八幡神社(ひがしいわしみずはちまんじんじゃ)
    児玉八幡神社(こだまはちまんじんじゃ)
祭 神:誉田別命(ほんだわけのみこと)・姫大神(ひめおおかみ)・神功皇后(じんぐうこうごう)
創 建:康平6年(1063)
社 格:旧県社
指 定:埼玉県指定有形文化財(八幡神社社殿及び銅製鳥居 平成2年(1990)3月28日指定)
    本庄市指定文化財( 随身門 昭和40年(1965)3月1日指定)
鎮座地:埼玉県本庄市児玉町児玉198(旧児玉郡児玉町)

本庄市児玉町児玉地内に鎮座する『東石清水八幡神社』を参詣してきました。当神社は、下に掲載
の案内板や御由緒に記されているよう、平安時代後期に源頼義・義家親子が奥州征伐から帰陣の際
に立ち寄り社殿建立し、京都の石清水八幡宮より勧請したことから東石清水八幡神社となったと伝
わるようです。
このように、すべてが真偽の程は別として、八幡太郎源義家や、源頼朝などが建立した寺院とかお
手植えの松などと言われるものが各地に存在します。
東石清水八幡神社の東隣には、児玉党の領主児玉六郎時国の館跡と伝わる玉蓮寺があります。




東石清水八幡神社参道入口と鳥居




神社西南側の道路は「鎌倉街道上杉道」で、神社北側を「鎌倉街道上道」が通り、ここより東方に
少し進んだところで上道に合流する。




東石清水八幡神社参道




文化財配置図




   東石清水八幡神社
                          所在地 児玉郡児玉町大字児玉

 東石清水八幡神社の祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)、姫大神(ひめおおかみ)、神功
皇后(じんぐうこうごう)の三神である。
 社伝によれば、平安時代の末期、源義家が父頼義に従い奥州征伐に赴く途中金鑚(かなさな)
神社へ参詣したが、そのおりに当地へ斎場(まつりば)を設け、戦勝を祈願し、康平6年(10
63)帰陣の際ふたたび当地に立ち寄り、社殿を建立して八幡宮を迎え「東石清水白鳩峯」と称
したのが始まりという。
 現在の社殿は享保7年(1722)に再建したもので、拝殿は入母屋造りとなっており、屋根
は銅葺千鳥破風造りである。拝殿の格天井(こうてんじょう)には狩野直信(かのうただのぶ)
筆の「飛龍の図」が描かれている。また、建物の彫刻は江戸の彫刻師の手によるもので、緻密な
彫に極彩色がほどこされており、特に本殿の左右及び裏の三面には唐様の人物や花鳥が彫刻され、
その華麗さは県下でも稀な社殿として有名である。
 境内にある江戸時代の高札場は、もと本町と連雀町との境いの道路にあったものを昭和5年に
現在地へ移したもので、県内に現存している数少ないものの一つであり、町の文化財に指定され
ている。

  昭和58年3月                         埼 玉 県





『随身門』 (本庄市指定文化財)



東石清水八幡神社社殿と青銅製鳥居




「埼玉県指定有形文化財  東石清水八幡神社社殿・銅製鳥居」説明板




社殿(拝殿)




本殿・幣殿・拝殿が連結した複合社殿




境内末社(一部)




御嶽山神社




神池のほとりに立つ「八幡神社 御由緒」




神池  



江戸時代の『高札場』 (本庄市指定文化財)
児玉村の高札場で、従来は連雀町と本児玉(本町)の境いあたりの街道上にあったが、交通の障害
となったため、昭和5年に現在地(八幡神社北西隅)に移築したもの。

参詣日:令和元年(2019)5月22日(水)