四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

鶴ヶ丘稲荷神社古墳(埼玉県鶴ヶ島市)

2020年06月17日 | 古墳


名 称:鶴ヶ丘稲荷神社古墳(つるがおかいなりじんじゃこふん)
別 名:―
墳 形:方墳
規 模:東西40m、南北53m
築 造:7世紀後半
出土品:土師器
指 定:―
所在地:埼玉県鶴ヶ島市松ヶ丘3丁目15・境公園

鶴ヶ島市の『境公園』に復元された古墳があるとのことで訪ねてみました。
説明板にもあるよう完全復元ではありませんし、石室も床部分の復元ですので、古墳の研究家や
愛好者の方には物足りないかもしれませんが、古墳のお勉強の初歩としては十分分り易いかと思
います。




        鶴 ヶ 丘 稲 荷 神 社 古 墳
 川越・鶴ヶ島土地区画整備事業に伴い、昭和58年から昭和59年にかけて、この古墳の発掘
調査が行われました。墳丘は削られてほとんど残っていませんでしたが、検出された周溝から方
墳であることが確認されました。
 遺体を埋葬する施設は、凝灰岩を加工した石材を使用した複室構造の横穴式石室で、最下段の
石材が残っていました。上から見た形は羽子板状で、石材には工具で加工したあとが見られます。
 石室の出土遺物はほとんど残されていませんでしたが、周溝からは土師器の破片が出土しまし
た。古墳の築造年代は、古墳時代の終わりに近い7世紀後半と考えられます。
 この古墳は、ここから北東約50mのところで発掘調査されたものを復元したものです。石室
は元の古墳と同じ大きさですが、その他は1/2の大きさにしました。従って、古墳を正確に復
元したものではありませんが、古墳とはどのようなものであるかを知ることができるでしょう。
 なお、古墳の周辺は鶴ヶ丘遺跡と呼ばれ、発掘調査によって旧石器時代から平安時代までの長
い間にわたり、人々が生活していたことが分りました。
    平成29年11月                     鶴ヶ島市教育委員会




玄室:遺体などを治める空間。
羨道:玄室へと通じる通路。
複室構造:玄室が2つの空間に分けられている石室。
     羨道側の玄室を前室と呼ぶ。
前庭部:主に儀礼を行う。羨道の外に広がる空間。
周溝:墳丘の周囲を巡る溝。



復元された鶴ヶ丘稲荷神社古墳




復元された石室

散策日:令和2年(2020)5月30日(土)

馬室埴輪窯跡(埼玉県鴻巣市)

2020年06月16日 | 古代窯跡


名 称:馬室埴輪窯跡(まむろはにわかまあと)
形 態:埴輪窯跡
時 期:古墳時代中期~後期(5世紀後半~6世紀末)
指 定:埼玉県指定史跡(名称:馬室埴輪窯跡 昭和9年(1934)3月31日指定)
所在地:埼玉県鴻巣市原馬室2915

馬室埴輪窯跡は、鴻巣市南西端、荒川に臨む河岸段丘に作られた古墳時代後期の半地下式無段登窯
群遺跡で、10基以上の埴輪窯跡が確認されている。発掘調査後は保存のため埋め戻されています。




馬室埴輪窯跡全景
窯跡の背後から右側にかけては「馬室キャンプ体験広場」となっている




「埼玉県指定史跡 埴輪窯跡  昭和九年三月三十一日指定 鴻巣市教育委員会」の標柱




「史蹟 馬室村埴輪窯址」の石碑
馬室村(まむろむら)は、埼玉県北足立郡にあった村。現在の鴻巣市南西部にあたる。
昭和29年(1954)に鴻巣町・箕田村・田間宮村・笠原村と合併して鴻巣町となり消滅。




馬室埴輪窯跡 南側から




馬室埴輪窯跡 北側から




「埼玉県指定史跡 馬室埴輪窯跡」説明板

埼玉県指定史跡    馬 室 埴 輪 窯 跡
                               時代 古墳時代後期
 古墳に埴輪を立て並べる風習は、古墳文化の中心地であった関西地方で生まれ、4~6世紀の
約300年間にわたって北海道を除く全国各地で盛んに行われました。
 埴輪には、円筒形、人物形、動物形、家形などたくさんの種類がありますが、その焼き方には
大きく二つの方法があります。一つは、地面に浅い穴を掘って焚き火のように焼く野焼きで、日
本では縄文土器が出現して以来の伝統的な技法です。もう一つは、馬室窯跡のように台地の斜面
などを利用し、本格的なのぼり窯で焼く方法です。後者は5世紀の中頃に、朝鮮半島からわが国
に伝わった新しい技術で、それが埴輪生産に導入されたものです。この窯を使って焼く方法は、
一度に多量の良質な埴輪を焼くにはとても有効で、6世紀台に入ると関東地方でも広く普及しま
した。
 馬室埴輪窯跡は、昭和7年に初めて正式な発掘調査が行われ、古墳時代の埴輪生産の様子を知
る上でとても貴重であることから、昭和9年に県指定史跡に指定されています。
 現在までに、保存地区周辺には10基以上の埴輪窯跡が確認され、台地上には埴輪工人(製作者)
たちの集落も発見されています。このことから、工人集団のくらしを知る上でも大変重要な遺跡
です。
 ここで生産された埴輪は、箕田古墳群をはじめとして、荒川流域の古墳へ運ばれていたものと
考えられていますが、埴輪を焼いていた期間は5世紀後半~6世紀末までの約120年間であった
ものと思われます。
 平成4年3月
                       埼玉県教育委員会・鴻巣市教育委員会





窯跡分布図  赤枠で囲った部分が保存されている




埴輪窯跡平面図(保存区)  
指の形をした部分が窯跡で現場においてはオレンジ色のコンクリートで固めてある部分




埴輪生産の復元図

散策日:令和2年(2020)5月28日(木)

三島神社古墳(埼玉県鴻巣市)

2020年06月15日 | 古墳


名 称:三島神社古墳(みしまじんじゃこふん)
別 名:―
墳 形:前方後円墳
規 模:全長約55m 後円部径30m
築 造:6世紀後半
出土品:土師器・埴輪
指 定:鴻巣市指定史跡(名称:三島神社古墳 昭和34年(1959)1月16日指定)
所在地:埼玉県鴻巣市明用123 (旧北足立郡吹上町)




一の鳥居  神額には「三嶌大神」と揮毫されている




境内全景




三島神社社殿




三島神社 御由緒




鴻巣市指定文化財(史跡) 三島神社古墳
                              昭和34年1月16日指定
 元荒川と荒川が分流する地点の自然堤防上に位置する市内最大の前方後円墳で、墳丘主軸を
ほぼ南北に置き、北側が後円部、南側が前方部と考えられる。墳丘はすでに大きく削られ、埋
葬施設である横穴式石室は古く破壊されている。石室の石材である緑泥片岩及び凝灰岩質砂岩
は、三島神社本殿前の参道及び正面右側に置かれている。
 墳丘の規模は、昭和58年の周溝確認調査によって主軸長約55メートル、後円部径約30
メートルであることが判明し、墳丘及び周溝中から多量の埴輪片(円筒・馬形)が検出された。
本古墳の築造年代は横穴式石室、埴輪の特徴から六世紀後半と考えられる。出土した埴輪は、
南東六キロメートルに位置する生出塚埴輪窯から供給されたことが明らかになっている。
 平成28年6月
                                  鴻巣市教育委員会




三島神社古墳実測図




石室の石材




二の鳥居と拝殿の間にある石室の石材である2枚の平石




社殿の左後方に鎮座する末社




社殿のある前方部を北側から
※社殿が建つのは前方部とされるも古墳は大きく崩れて前方部後円部の区別は難しいが、社殿の
あるところを前方部として説明を進めます。




社殿のある前方部から後円部方向に




後円部から前方部方向に




後円部を東側から




左側が前方部 右側が後方部  高低差がほとんどなくなっています

散策日:令和2年(2020)5月28日(木)

御所稲荷古墳(埼玉県吉見町)

2020年06月14日 | 古墳


名 称:御所稲荷古墳(ごしょいなりこふん)
別 名:-
墳 形:円墳 
規 模:径20m
築 造:不明
出土品:-
指 定:-
所在地:埼玉県比企郡吉見町御所

御所稲荷古墳は、「横見神社」の境内にある古墳ですが、その詳細はよくわかりません。




西南からみた御所稲荷古墳  古墳の右側(東側)が横見神社




稲荷神社
墳頂ではなく墳丘を削って建立されています。
明治5年ころ、横見神社の境内末社として建立されたようです。

散策日:令和2年(2020)5月28日(木)



和名埴輪窯跡群(埼玉県吉見町)

2020年06月13日 | 古代窯跡


名 称:和名埴輪窯跡群(わなはにわようせきぐん)
形 態:埴輪窯跡  昭和49年(1974)の発掘調査で4基の登窯を検出
時 期:5世紀後半~7世紀
出土品:円筒埴輪・象形埴輪 
指 定:埼玉県選定重要遺跡(名称:和名埴輪窯跡群 昭和51年(1976)10月1日選定)
所在地:埼玉県比企郡吉見町和名

和名沼の北側斜面に埴輪窯跡群があるとのことで訪ねてみました。しかし、すんなり行けたわけで
はなく、いつもの如く付近をを行ったり来たりした挙句、近くで庭作業をしていた男性にお聞きし
てやっとたどり着いという次第です。

余談ですが、ここの「窯跡」は【ようせき】と音読みをしますが、場所によっては【かまあと】と
訓読みしています。
中には両方の読み方をしている窯跡もありますが。




現地の説明板
 
   和 名 埴 輪 窯 跡 群
 古くから、ここ和名沼の北側斜面一帯は、多くの埴輪が発見されることで知られていました。
昭和49年に行われた発掘調査では4基の埴輪を焼いた登り窯の跡が見つかっています。昭和62年
にはさらに1基の窯跡があることが確かめられ、そのままこの場所に遺されています。これ以外
にもたくさんの登り窯跡があると考えられており、県内有数の埴輪窯跡群のひとつです。
埴輪は、今から1600年前から1200年前頃まで続いた古墳時代の豪族の墓である古墳の廻りに設置
されたものです。
 ここで焼かれた埴輪には、人物、馬などの形象埴輪や円筒埴輪があり、近くの久米田古墳群を
はじめとする吉見丘陵や、岩鼻古墳群などの松山台地上に造られた多くの古墳の設置するために
生産されたと考えられます。
  昭和62年6月
                                 吉見町教育委員会




和名沼北側斜面には、ここの埴輪窯跡群以外は住宅が建ち並んでおり、新たな窯跡の発掘は難しい
と思われます。




窯跡を杭で表示してありましたが、草が繁茂していたため見落とすところでしたし、全体を見るこ
とはできませんでした。

散策日:令和2年(2020)5月28日(木)

岩室観音(埼玉県吉見町)

2020年06月11日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:岩室観音( いわむろかんのん)/岩室観音堂 (いわむろかんのんどう)
    岩室山龍性院(いわむろさん りゅうせいいん)境外仏堂
本 尊:聖観世音菩薩
創 建:弘仁年中(810~824)※不確か
再 建:寛文年間(1661~1673)
構 造:木造懸造り
指 定:吉見町指定文化財 建造物(名称:岩室観音 昭和46年(1971)11月22日指定)
備 考: 比企西国三十三観音札所(霊場) 第三番・ 胎内くぐり
所在地:埼玉県比企郡吉見町北吉見327

岩室観音は、国指定史跡「𠮷見百穴」の手前の道沿いにあり、𠮷見百穴見学や松山城攻城の際に立
ち寄る方も多いようです。
岩室観音堂、嵯峨天皇の御代の弘仁年中(810~24)に真言宗の宗祖弘法大師が、諸国遊歴の際に、
当地で岩窟を選んで高さ一尺一寸(36.4㎝)の観世音の尊像を彫刻しこの岩窟に納めてその名前を
岩室山と号し創始したと伝えられています。




観音堂を正面から
この背後の崖の上は松山城の惣曲輪あとで、このお堂のある場所は、(伝)搦手口です。




   岩室観音と石仏
 岩をうがって観音像をまつったところから岩室観音という。龍性院の境外仏堂である。
 この観音のはじまりは弘仁年中(810~824年)といわれていいるが、たしかな記録は残
っていない。
 松山城主が代々信仰し護持していたが、天正18年(1590)松山城の攻防戦の際に兵火に
あって当時のお堂は焼失してしまった。
 現在のお堂は、江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に龍性院第三世堯音が近郷近在
の信者の助力を得て再建したものである。お堂の造りは懸造り様式で、江戸時代のものとしては、
めずらしいものである。
 また、ここにある石仏は、四国八十八ヶ所弘法大師巡錫の霊地に建てられた寺々の本尊を模し
たもので、八十八体の仏像がまつってある。 また、この石仏をおがめば、いながらにして四国
八十八ヶ所を巡拝したのを同じ功徳があるとされている。
 平成15年3月
                                吉見町・埼玉県




1階部分
このお堂の奥に胎内くぐりがあります




お堂に入ると左右の洞窟内にたくさんの石仏が安置されています。
これらの石仏は「四国八十八ヵ所」の霊地にたてられた本尊を模したものと言われ、合計で88体あ
り、こちら左側には、1番から51番までの本尊を模した石仏が安置されています。




こちら右側の洞窟内には52番から88番までの本尊を模したものとされる石仏が安置されており、居
ながらにして四国八十八ヵ所をお参りしたのと
同じ巧徳を得られるとされています。
また、「比企西国三十三札所」の第三番にも指定されています。




   岩室観音について
一、縁 起
武州比企郡岩室山の正観世音は、その昔、嵯峨天皇の御宇・弘法大師が諸国を遊歴しこの地に至
り、岩窟を選び三昧に入り、観世音の尊像を彫刻しこの岩窟に納め、岩によりて殿をかまえ岩室
山と号し多くの人を血縁せしめました。
天正の終わり事、太閤秀吉関東に出馬したとき、石田三成の士卆によって松山城が灰燼となり、
その餘焔大殿にかかり堂宇残らず消失しても、尊像だけが不思議にも岩窟内に無事おわしました。
その後、龍性院中興第三世・堯音法師が師命を受けて遠近を駆け巡って檀信徒の助力を募って、
寛文年中に現在のお堂を造営したと伝えられています。
二、お堂
この建物、懸造りと称して、有名な京都清水寺の観音堂と同様で、稀に見る貴重な建物です。
三、ご縁日は毎月十八日
災難除け、交通安全、商売繁盛、安産等あらたらかな霊験は、広く知られています。
                          岩室山 龍性院




お堂2階  本尊様が奉ってあります  奉納額や千社札だらけです




胎内くぐりは、←印で示したところから鎖に掴まって登って行きますが、足場が悪いので注意を。



岩室観音堂の胎内くぐりはハート型になっており、ここで胎内くぐりをすると、 子宝・安産・子育
ての願いに通ずると言われております。

自身も、𠮷見百穴や松山城を訪ねた際に、(ついでに?)何度か立ち寄って何枚かの写真を撮って
ありましたが、今回あらためて訪ねてみました。

参詣日:令和2年(2020)5月28日(木)

山王古墳群(埼玉県嵐山町)

2020年06月09日 | 古墳


名 称:山王古墳群(さんのうこふんぐん)
別 名:-
墳 形:円墳 
規 模:径20m未満の小規模の古墳群
築 造:古墳時代後期(6世初め~7世紀半ば)
出土物:-
指 定:嵐山町指定史跡(名称:山王古墳群 昭和60年(1985)12月1日指定)
所在地:埼玉県比企郡嵐山町大字千手堂字山王

嵐山町大字千手堂地内に所在する『山王古墳群」を散策してみました。
菅谷館跡周辺の鎌倉街道上道の道筋は3ルート以上が提唱されていますが、その一つのルート沿い
に山王古墳群はあります。



『山王古墳群』説明板




右の石碑は昭和33年に建立された「鎌倉街道碑」
左の看板は「オオムラサキの森説明・案内図」ですが、この背後に、延長約200mのくぼ地があ
り、鎌倉街道上道跡の掘割状遺構と言われてきたところですが、発掘調査の結果、掘割状遺構では
なく城(菅谷館)の堀跡ではないかとの結果に至ったようです。
中央の小道の両側に古墳群はあります。




小道東側部分に多くの古墳が展開していますが、この古墳群の雑木林は「オオムラサキの森」とな
っていて、入場できるのは、土日と祝日のみです。




各古墳には【〇号墳】と番号が付されているようですが、それを示す資料の持ち合わせがありませ
んので説明できません。
なお。写真の中に数字が書かれた杭がありますが、これは「オオムラサキの森」の観察杭で古墳と
は関係ないようです。




現在何基の古墳が残存しているか分りませんし、こうした藪状態ですので撮れる範囲で撮ったもの
を掲載しておきます。








撮影日:令和元年(2019)12月1日(日)

伝鎌倉街道(埼玉県北本市)

2020年06月07日 | 鎌倉街道


      伝 鎌 倉 街 道
 鎌倉幕府の成立とともに整備された鎌倉街道は鎌倉と関東諸国・信濃・陸奥とを結んだ歴史の
道として知られています。かつての鎌倉街道には、上道・中道・下道の幹線とそこから派生する
大小の枝道が発達していました。
 北本市内の西部には、古くから鎌倉街道と伝わる古街道が南北に通っています。
 この街道は中道から枝分かれして荒川沿岸を北上し、群馬県へと通じる上野道と考えられてお
り、支道としての役割を果たしていたようです。
 街道沿いには中世の城館跡や寺院等の文化財が数多く存在し、歴史的に重要な街道であったこ
とがうかがえます。
 この街道のルートは、上尾市の平方から桶川市の川田谷をへて、市内では庚塚(芭蕉句碑)─
石戸宿─須賀神社・氷川神社─
     道標「これより石と舟とミち」
─鉄砲宿を結んでいたと伝えられて
います。
   平成29年12月
                       北本市 北本市教育委員会

上記内容のように、埼玉県北本市に鎌倉街道中道の枝道ではないかと伝わる道筋があるとのことか
ら散策して来ました。




道標「これより石と舟とミち」




標柱【 市指定歴史資料 道標「これより石と舟とみち」】




市指定歴史資料 道標「これより石と舟とみち」
                           昭和53年3月15日指定
 この道標は、享保12年(1727)に、馬室(鴻巣市)から石戸宿へ通じる、鎌倉街道と伝
えられる道沿いに建立されたものである。
  (銘文)
   正 面 西 たかお舟とみち
       北 かうのすミち
   裏 面 高尾村
       享保十二未天四月吉日
       新井平兵衛
   左側面 左川越道
   右側面 これより石と舟とミち
 ここでいう「石と舟と」とは「石戸河岸」のことである。
 荒川は、江戸時代から大正時代頃までの長い間、舟運が栄えていたが、この道標は、その河岸
の存在を示す貴重な資料である。
 現在、実物は北本市教育委員会で保管している。
   平成6年3月
                           北本市教育委員会



正 面: 西 たかお舟とみち
     北 かうのすミち
左側面: 左川越道




裏 面:        高尾村
     享保十二未天四月吉日
          新井平兵衛
右側面: これより石と舟とミち




道標のある場所から「伝鎌倉街道」を石戸宿方向に向かいます(途中までですが、説明板の道順と
は逆順になります)
⇒印の所に「伝鎌倉街道」説明板が立っています




          ⇐ 庚塚(芭蕉句碑)   鉄砲宿・鴻巣 ⇒
                    鎌倉街道




「伝鎌倉街道」説明板の前をそのまま進行します




アジサイが咲いているカーブをそのまま右に折れます




氷川神社(高尾氷川神社)
   氷川神社脇の道路下に厳島神社(弁天社)がありますが写真は省略




須賀神社




北向き地蔵
説明板の写真をアップしても褪色が激しく判読できませんので内容を転記します

   北 向 き 地 蔵
                             所在地 北本市大字高尾
 「北向き地蔵」と呼ばれるこの地蔵尊は、願い事を叶えてくれる地蔵として有名で、泥の団子
を供えて願い事をし、願いが叶ったら、御礼に米の団子を上げるという信仰が現在も続いている。
 銘文によれば、享保十四年(一七二九年)に「万人講中」によって建立され、道しるべも兼ね
ていることがわかる。
 なお、市内でも高尾地区は、地蔵尊が比較的多く建立されていた所で、これは、万人講中とい
う信仰集団の存在が強く影響していたものと思われる。
〔銘文〕
 正 面 享保十四己酉四月吉日
     万人講中 武州石戸領高尾村
    右 石戸道  左 鴻巣道
 左側面 奉造立石地蔵尊万人講中為現当
     二世安楽也功徳云者……(以下省略)
 右側面 金子広吉再建
    願主 金子利助
 昭和六十三年三月
                               埼玉県  北本市




「北向き地蔵」を過ぎて少しした右側に「宮岡公会堂」があり、その脇に『伝鎌倉街道』説明板が
立っています。  ※進行方向と逆向きで撮ったものです。




『伝鎌倉街道』説明板
平成18年3月 北本市・北本市教育委員会建立のもので、色褪せていますので読むとなると苦労し
ますが、文面は、冒頭の説明板と書きだしが若干違うだけであとは同じです。




突き当りを左折しますと、「高尾保育園」があり、県道33号線に出ます。

散策日:令和2年(2020)5月30日(土)

名細の万葉歌碑(埼玉県川越市)

2020年06月05日 | 歌碑・句碑


碑 名:伝承 名細第一土地改良区記念之碑
所在地:埼玉県川越市鯨井(名細地区)

川越市の名細(なぐわし)地区は、かつては『名細村』でした。
明治22年(1889)4月1日、近隣9カ村が合併して誕生したのが、高麗郡『名細村』で、「名細き」
(なくわしき)とは、「美しい・名高い」の枕詞で、古歌からこの言葉を探して村名にしたとの
ことです。
明治29年(1896)3月29日、高麗郡が入間郡に編入したことにより入間郡名細村となりましたが、
昭和30年(1955)4月1日、川越市に編入合併したことで名細村は消滅しました。明治の大合併で
誕生し、昭和の大合併まで続いた「名細村」。この由緒ある村名を永久に残すために元の名細村
の一画に建立されたのが、この【伝承 名細第一土地改良区記念之碑】です。




【碑文】
 名細第一土地改良区記念之碑
  伝 承  吾等は遠都祖先よリ此の地を
       継承して 報恩感謝以て努力し
       愛護しきたれり これを後世児孫に
       伝承す 冀くは時世に順応しつつ   
       長久に保持されんことを          
         万葉集に
       名細き 稲見の海の おき津浪
         千重にかくりぬ 山跡島根は

と陰刻されています。

上記のとおり、末尾は、
    名細き 稲見の海の おき津浪
      千重にかくりぬ 山跡島根は
と結んでいます。

この歌は、
 万葉集 第3巻 303番歌
 作者 柿本人麻呂
 題詞 柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首
で、
《原文》  名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隠奴 山跡嶋根者
《訓読 》 名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は
《よみ》 なぐはしき いなみのうみの おきつなみ ちへにかくりぬ やまとしまねは 
《 訳 》 その名も美しい印南の海の沖の波が幾重にも重なって、とうとう故郷大和の山々も見え
      なくなってしまった。




この万葉歌が並記された石碑は「川越資源化センター」(川越市鯨井782番地3)の道路を挟んだ東
側角に建立されています。(この場所は地番はあっても、番地はありませんので番地での紹介がで
きませんので写真にしてみました)
なお、この碑の存在につきましては、jikan314 さんのブログに紹介されていたことから知りました。
jikan314 さんにお礼申し上げます。

散策日:令和2年(2020)5月30日(土)

荻野吟子生誕之地(埼玉県熊谷市)

2020年06月04日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:荻野吟子生誕之地(おぎのぎんこせいたんのち)
指 定:熊谷市指定史跡(名称:荻野吟子生誕之地 昭和46年(1971)11月3日指定)
現 況:荻野吟子生誕之地史跡公園・荻野吟子記念館
所在地:埼玉県熊谷市俵瀬581-1 (大里郡妻沼町)

埼玉ゆかりの三偉人の一人である公許女医1号荻野吟子女史の生誕の地は、現在、「荻野吟子生誕
之地史跡公園」として保存されています。
『史蹟 荻野吟子生誕之地』碑の上半分が桜の葉で隠れてしまいました。




 熊 谷 市 指 定 文 化 財
 一、種 別 史跡
 一、名 称 荻野吟子生誕之地
 一、指定年月日 昭和46年11月3日
 日本女医第一号の荻野吟子は嘉永4年(1851)3月3日幡羅郡俵瀬村の名主荻野綾三郎の
五女として、この地に誕生した。
幼くして妻沼両宣塾の松本万年に師事し優れた才能を開花させた。18歳で結婚後病により離婚、
女医の必要性痛感幾多の困難を経て明治18年(1885)開業試験に合格しわが国最初の女医
となり、湯島に開業した。
その後、キリスト教に入信し医業とともに婦人運動に参画し、明治29年(1896)渡道、瀬
棚町で医院を開業するが夫の死去により、明治41年(1908)帰京。
大正2年(1913)その生涯を閉じた。
                                  熊谷市教育委員会
                                  荻野吟子史跡保存会




荻野吟子女史の顔出しパネル




吟子さくら




荻野吟子女史像と荻野吟子女史顕彰碑




荻野吟子女子像




荻野吟子女史顕彰碑
題額には「荻野吟子女史之碑」とあります。
元々は、昭和43年(1968)4月に明治100年を記念して秦小学校に建立された荻野吟子女史顕彰碑で、
昭和59年(1984)11月 ここ荻野吟子生誕之地へ移転。史跡公園完成。
                



歌碑
無学のため全部は読めませんが、吟子は、北海道に渡り瀬棚村でも開業したことがあります。




四阿の休憩所




吟子女史の生家の長屋門を模した『荻野吟子記念館』




『荻野吟子記念館』入口
展示室(左側)と休憩室(右側)に分かれ、展示室には荻野吟子女史の生涯を時代に合わせて説明した
年表や資料を展示されています。




利根川の堤から荻野吟子生誕の地跡である荻野吟子生誕之地史跡公園と荻野吟子記念館を




荻野吟子の生涯を描いた渡辺淳一著『花埋み』  1970年(昭和45年)8月発行の初版本の単行本
半世紀前にこの『花埋み』を購入して読んだことにより、初めて荻野吟子という女史を知りました。

訪問日:令和元年(2019)5月15日(水)