四季・めぐりめぐりて

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安達盛長館跡(埼玉県鴻巣市)

2021年11月19日 | 100名城以外の城館跡


鎌倉幕府における「十三人合議制」の一人である安達盛長の館跡と伝わる鴻巣市糠田地内の放光寺
を再訪してきました。
安達盛長は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で鎌倉幕府の御家人で、源頼朝の流人時代から
の側近。当然、鎌倉に屋敷を構えていましたが、しかし、大蔵御所からは遠い甘縄という場所であ
りました。源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍(丹後の局)を室としました。娘・亀御前
は頼朝の弟範頼と結婚しています。他の有力御家人はそれなりの官位を受けていましたが、盛長は
無官であったとのことでもあります。

名 称:安達盛長館跡あだちもりながやかたあと
別 名:-
形 態:館
時 期:不詳
築城主:安達盛長
遺 構:-
指 定:-
所在地:埼玉県鴻巣市糠田1435 放光寺

安達盛長は、源頼朝に仕える前に糠田の地に館を構えていたと伝えられ、その場所が放光寺の辺り
ということで、放光寺のあるところとは特定はされていないようです。
ただ、「鴻巣市史」では、糠田の地は在地領主だった奴加田氏の本領としているようです。





門の左側に設置されている「木造安達藤九郎盛長坐像・糠田出土渥美壺」説明板
木造安達藤九郎盛長坐像についてのみ下に転記
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埼玉県指定有形文化財(彫刻) 平成元年3月17日指定
木造安達藤九郎盛長坐像
 ここ糠田山毘盧遮那院放光寺の開基は、源頼朝の御旗奉行を務めた安達藤九郎盛長とされ、本堂には
この盛長の坐像が安置されている。
 像の高さは77.4センチメートル。寄木造りで水晶の玉眼が入れられている。蓮西と名乗った出家後の
姿であるが、作者は不明。製作年代は南北朝時代と思われる。
 安達藤九郎盛長は治承4年(1180)源頼朝の挙兵に応じて相模の国で功を挙げ、同国を安堵(主君が
臣下に対して土地の権利や職位を保証すること)された。
 その後、盛長の所領は相模・下総・武蔵にまで及んだ。さらに建久5年(1194)には頼朝の信任をう
けて鶴岡八幡宮の奉行人となった。
 正治元年(1199)1月の頼朝の死後出家したが、その後も北条時政や大江広元等とともに、重要訴訟
の調査・裁決などに係わるなど幕府の要職にあり、三河の守護にも就いた。正治2年(1200)死去した。
                            埼玉県教育委員会  鴻巣市教育委員会
  
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上掲説明板から「木造安達藤九郎盛長坐像」の写真を




本堂




「盛長公之墓所」
昭和58年、伊豆・修善寺の安達盛長の墓から、台座などが寄贈されて、新しく設けられた墓所(供養塔)

散策日:令和3年(2021)11月17日(水)

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