四季・めぐりめぐりて

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三ツ木原古戦場(埼玉県狭山市)

2018年09月25日 | 古戦場・陣所


名 称:三ツ木原古戦場
概 要:天文6年(1537)三ツ木原で武蔵の支配を狙う北条氏綱と扇谷上杉朝定の戦いがこの辺りで行われたとされる
指 定:―
遺 構:―
現 況:三ツ木公園
所在地:埼玉県狭山市新狭山3丁目

天文6年(1537)7月11日、北条氏綱は川越城を攻略するため、三ツ木に着陣しました。これに対し扇谷上杉朝定は15日
川越城を出陣し、三ツ木原で両軍は争いましたが、朝定合戦は後北条氏方が勝利し、朝定は松山城へ敗走し、16日川越城は
落城しました。
三ツ木原の古戦場では、数々の戦が行われたところらしく、これ以前の元弘3年(1333)の新田義貞と北条高時軍の戦い、永
享12年(1440)上杉持朝が将軍義教の命で結城満朝を討った時の戦いがあったとされます。

三ツ木原古戦場跡は、川越狭山工業団地の南西隅「三ツ木公園」として残っていますが、本来はもっと広範囲であったと思わ
れます。




三ツ木公園の南側の道路に面して建てられている「三ツ木原古戦場跡」の標柱  公園内後方に石碑と説明板が見えます





「三ツ木原古戦場の碑」と「三ツ木原古戦場の碑」説明板




汚れていて読み辛いかもしれませんが、何とか読めそうですので説明文の転記は省きます




石碑の裏面にも色々と刻まれています
金子和泉守国重は、武蔵七党のひとつ村山党に属した金子十郎家忠の子孫とのことも触れています




三ツ木公園内の一角




同上




この辺りで緑が残るのはこの三ツ木公園のある一画だけかもしれません




三ツ木公園の東側(正しくは北東側)の道路
車の先に見えるのが西武新宿線の線路 この左手少し先に「新狭山駅」があります




東側道路を挟んだ三ツ木公園の反対側は川越狭山工業団地で、世界の「HONDA」の工場です。




三ツ木公園北側の状況




北側道路から見える世界の「HONDA」

工業団地、住宅地として大規模な開発がされたようで、古戦場跡もその侵略の犠牲になっても不思議でなかったなかで、こうし
て一部かも知れませんが、三ツ木公園として古戦場跡が残されたことは歴史の大事な財産かも知れません。

散策日:平成30年(2018)8月29日(水)

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