四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

ポンポン山の『高負彦根神社』(埼玉県吉見町)

2020年11月25日 | 神社仏閣
◇延喜式内社◇


社 号:高負彦根神社(たかおひこねじんじゃ)
旧 称:玉鉾氷川明神
御祭神:・味鉏高彦根尊(あじすきたかひこねのかみ)
    ・大己貴尊( おおあなむちのみこと )
創 建:和銅3年(710)
社 格:延喜式内小社・旧村社
例 祭:7月18日  例祭
指 定:-
鎮座地:埼玉県比企郡吉見町田甲1945

平安時代の延長5年(927)に作成された『延喜式』神名帳の『武蔵国横見郡』に記載され
た式内社は三社で、そのうちの一社『高負比古神社』に比定されるのが吉見町田甲地内に
鎮座する『高負彦根神社』です。当社は通称「ポンポン山」と呼ばれる玉鉾山という岩山
の頂上に鎮座しています。




高負彦根神社を若干遠景で




【高負彦根神社(ポンポン山)】の大きな看板




鳥居左側の『社号標』 【高負彦根神社】とのみあり




鳥居右側から




鳥居右側の『社号標』 
古い物のようで やはり【高負彦根神社】と刻まれているようですが一部読めません




古い社号標の右側にある『獅子封じ塚』の説明板

     獅子封じ塚
 昔、高生郷(現在の田甲)には、獅子舞いの古い行事がありました。
 今から、数百年前ごろの旧暦6月の某日、悪疫退散のため、獅子頭を冠り、戸毎を訪問する行事が
行われておりました。
しかし、ある年、痢病が著しく発生し、死者も多く出たので、村人たちは、これは産土神のお咎めで
はないかと恐れ、獅子頭を境内に埋没し、その上に柊(昭和12年に大柊は、県指定文化財となるが、
現在は二代目)を植えて、獅子封じをしました。それ以来、痢病もおさまり、平和になったと言れて
います。
※痢病・・・腹痛や下痢の激しい伝染病の類。
※産土神・・・その生まれた土地を守護する神、鎮守の神。
※高負彦根神社の三鉾・・・湊石(御身体)・大柊・菊水(湧水)




石碑の背後にあるのが『獅子封じ塚』
写真汚撮り方を失敗しました よころでこの石碑は何?




『鳥居』 明神鳥居のようです




鳥居の『扁額』 【高負彦根神社】と揮毫されています




『手水石』




拝殿を正面にして境内を




社殿を右斜めから




『拝殿』




向拝の入母屋破風の棟鬼飾りには【髙負】




拝殿正面




拝殿正面を横から




拝殿の『扁額』  横書きです 
文字数が多いため縦書きにすると額が大きくなる或いは文字が小さくなるからと勝手な推理




拝殿内




拝殿を左斜めから




拝殿側面




『本殿』(覆殿)




境内社『三峰神社』




本殿のやや右後方に設置されている『ポンポン山(高負彦根神社)』説明板

     ポンポン山(高負彦根神社)
 縁起式内社で昔は玉鉾氷川明神とも称した。
 祭神は、味鉏高彦根尊、大己貴尊ともされるが素戔嗚尊ともいわれる。
 社記によれば、和銅3年(710年)創建と伝えられる古社で、宝亀3年(772年)12月19日の
太政官符に「案内ヲ検スルニ、去ル天平勝宝7年(755年)11月2日ノ符ニアグ。武蔵国幣帛ニ預
ル社四処」として、その一つに「横見郡高負比古乃神」と記してある。
 社殿の後方の巨岩に近い地面を強く踏むとポンと音を発する。そこでこの山をポンポン山とも言う。
巨岩の
直下20メートルの平地は古代荒川の流路であった。吉見丘陵の東端をめぐった荒川流域に式内三社
が存在したのはこの地域が早くから開発が進んでいたことによるものと思われる。
 平成10年3月
                                    吉見町・埼玉県




社殿を『ポンポン山』から




当社の鎮座する玉鉾山(ポンポン山)
この岩山の前あたりの地面を強く踏むと『ポンポン」と音がするとのことから名付けられた由
残念ながら音を聞くことはできませんでしたが・・・
この先は20メートルの崖の下に平地が広がっているとのこと




『庚申塔』があります
神社参道の方から見た限りでは岩山の上に社が鎮座しているようには見えませんでしたが




岩山からの展望ですが崖縁まではとても行けませんでしたので・・・

参拝日:令和2年(2020)10月11日(日)

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