四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

神流川古戦場跡(群馬県高崎市)

2016年12月24日 | 古戦場・陣所


神流川古戦場へ行ってきました。正しくは神流川古戦場跡の碑が建っている場所へですが。古戦場跡は武蔵国と上野国との境で、今で言うと群馬県高崎市(旧多野郡新町)と
埼玉県児玉郡上里町との境を流れる神流川で、国道17号線の神流川橋あたり。群馬県側に、神流川古戦場跡の碑が建っており、埼玉県側にもやはりあるとのことでした。
神流川古戦場跡の碑があるということは知っていましたが、まさかあの場所にあったとは、何度か前を通っていながら気づきませんでした。

この神流川古戦場跡の碑を見るために埼玉県側から神流川橋を渡り群馬県高崎市(旧多野郡新町)に入り、碑のある場所を確認してから駐車できそうな場所を探しましたが
交通量の多いところで適当な場所は見当たりません。埼玉県側ならあるかもしれないと、再び神流川橋を渡って埼玉に戻り、河川敷の堤で駐車できそうな場所を探して駐車。
あとは徒歩で神流川橋の袂まで戻り、橋を渡り神流川古戦場跡の碑のある所まで。正直、一番やりたくない方法だったのですが・・・

先に、神流川の合戦とはどんなものであったを記しておいた方がよいでしょう。と言うことで、本来なら自分の言葉で紹介したいところですが、その知識と能力がありません。
このあと写真でも紹介しますが、碑の脇に建てられている「神流川合戦」の説明板の文面を書き写させていただきます。実際には、もっとたくさんの説明が必要な神流川の合戦であるようです。


  『神流川合戦』
天正10年(1582)6月19日織田信長が本能寺で倒れた直後、関東管領・滝川一益は信長の仇を討たんと京へ志し、
これに対して好機至れりと北条氏は5万の大軍を神流川流域に進めた。滝川一益は義を重んじ勇猛の西上州軍1万6千を率いて
石をも燃ゆる盛夏の中死闘を展開し、滝川軍は戦死3760もの戦史に稀なる大激戦で『神流川合戦』と呼んでいる。
後世古戦場に石碑を建立し、首塚、胴塚も史跡として残され東音頭にもうたわれ、神流の清流も今も変わることなく清らかに流れている。
                                        (以上 現地説明板より)

少し補足しますと合戦は2度にわたって行われ、6月18日の緒戦は滝川勢の勝利、19日の二戦目は北条勢の大勝利で滝川勢は箕輪城に敗走。
これが原因でか滝川一益は、信長の後継者を決める清須会議に間に合わず出席できなかったようです。一説には負けたから参加させてもらえなかったとも。




上里町側の堤を歩いていく途中に見つけました。埼玉側にも碑があると言われていたのはこのことだったようです。




石碑でも建っているのかと勝手に思っていましたが、いつもの高札の形をした案内(説明)板でした。判読するのは大変なので写真のみで。




いよいよ橋を渡ります。こんな長い橋を歩いて渡ったことはありません。
橋の両端にある灯籠でこれは埼玉県側のもの 




この灯籠のモチーフとなった武州側の常夜灯は大光寺(上里町)に移築されている旨の記載があります。




合戦があった当時とは地形も流れも変わっているようですが、この辺りを舞台に合戦が行われたのですね 埼玉県側に近い方で撮影
高所恐怖症の私、橋を渡っているだけで足が竦んでしまいました。更に、車が走り去るときの風と橋の揺れが恐怖を誘う。
帰りもまたこの橋を渡って行くのかと思うと・・・




大体この辺りが中間でしょうか
写真左側群馬県側が滝川一益が領していた織田領 右側埼玉県側が北条領




上の写真より若干群馬寄りかな




群馬県高崎市に入りました  10年前までは  高崎市ではなく「新町」の地名標識が架かっていたはずです




神流川橋を渡り終えた目の前に・・・




神流川合戦ゆかりの里と白く抜かれた幟旗 上部の紋は「丸に竪木瓜紋」 滝川氏の家紋ですね。まあ、ここはかつての滝川領ですから
埼玉県側に北条の三鱗紋の入った幟でも立っていれば、なんてつまらない考えは止しましょう




目的の神流川古戦場跡の碑




そして、神流川合戦の説明板




道路反対側から 車の途切れた一瞬を狙って




帰りは来た時撮った神流川とは反対側を高崎線の鉄橋入りで  当然ですが左が埼玉 右が群馬となります

神流川古戦場跡の碑を見たからどうってことはないのでしょうが、でもなぜか歴史へのロマンがあるようで・・・

散策日:2016(平成28)年12月19日(月)

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