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高台院と言うとすぐに思い浮かぶのが豊臣秀吉の正室ねねの法名である高台院ですが、
深谷市役所のすぐ北側(深谷市田谷308)に曹洞宗の寺院で「高台院」と言うのがあるのを知りました。
探し物のために深谷市役所周囲を回っていたところ、当寺の前の案内板に「上杉憲賢室高泰姫の墓」の文字を見たものですから、それではと・・・
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高台院門前の「深谷城主上杉憲賢公 ・ 室 高泰姫 ・ 墓所 高臺院」と刻まれた石標
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高台院の由緒が記された案内板
上杉氏と言うと深谷市とは縁が深いようですが、上杉〇〇はとにかく多くてとても頭に入りません。
山内上杉家の山内憲顕の実子山内憲英が庁鼻和(コバナワ)城を築き(現在の国済寺)庁鼻和上杉を名乗り その曽孫上杉房憲が深谷城を築き深谷上杉を称した。
上杉憲賢(のりかた)は、山内憲英から数えて6代目・深谷城主3代目です。
憲賢の室高泰姫の出自等は不明ですが、元亀4年(1573)2月6日に没しているようです・
7代憲盛の代に後北条氏の傘下となったが、小田原征伐により後北条氏が敗れたことにより、豊臣秀吉に所領を奪われています。
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高台院は正式には、深谷山高台院永明寺で、憲賢の菩提を弔うために、高泰姫が永禄4年(1561)に再興され、
高泰姫の名に因み「高台院」と称するようになったとありますが、元は高泰院としたが、「泰」を「台」とあらためたようです。
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山門と山門に架かる「深谷山」の山号額(扁額)
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本堂
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「高臺院」の扁額 と 深谷上杉氏の家紋「竹に二羽飛び雀」(竹に雀)
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鐘楼
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深谷上杉氏の墓所
後方に見えるのが深谷城築城のとき城の鎮守として祀った永明稲荷社と土塁
この高台院のある場所は深谷城の西曲輪があったところです
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中央の宝篋印塔が高泰姫の墓 右側の宝篋印塔が上杉憲賢の墓 左側の碑は墓誌
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土塁と永明稲荷社
散策日:2017年(平成29年)5月27日(土)