AKB48の旅

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神の沈黙

2014年04月03日 | AKB
それなりに秋元氏の言動を追いかけてみて、私などが不可思議に思うのが、因果律と予定律に対する秋元氏の奇妙な振る舞いだったというのは、以前にちょろっと書いた。秋元氏は基本、極めて日本人的な因果律に則った考え方をする一方で、唐突に思えるようなプロテスタント的な予定律の残酷さを、無造作にさらけ出してくる。

この辺り、思想信条に囚われない秋元氏だからこその、ロマンチストとリアリストの共棲による現実認識、そのように取り敢えず理解したわけだけど、この辺りのことを、もうちょっと噛み砕いてみたくなった。正確には、昨日の記事で、「神の沈黙」と書いてしまったんで、そこら辺りをもうちょっと掘り下げてみようかと。幸いというか、AKB界隈には、たいへん都合の良い「名言」がある。

「努力は必ず報われると、私、高橋みなみは、この人生をもって証明します!」

ご存じ高橋さんが、第3回、第4回選抜総選挙のスピーチで語った言葉。様々な誤解、曲解を招いたことでも有名だけど、あの誤解、曲解の遠因もたぶんここにある。この言葉の解釈の仕方が、因果律を取るか予定律を取るかで、ほとんど真逆になることになる。あるいは、この言葉の内的構造に、正に秋元氏的な因果律と予定律の屈折がある。

純粋な因果律でこの言葉を読み下してみるなら、「努力」という原因によって、「報い」という結果が「必ず」発生する。ただし「報われる」という表現には報奨の意味合いがあるので、「努力」に応じた望ましい「報い」が「必ず」発生するという主張と言うことになる。これは因果律的に保証されるわけではないので、そこは未決事項として、自らの「人生」という一例でもって、「証明」という言葉を使ってるけど、正確を期すなら「一例報告」を試みる、そういう理解になる。

これが予定律だとどうなるか。機械論的唯物論ではないプロテスタント的な予定律だと以下のようになる。すべては事前に決定されていることであり、「努力」したから「報われる」のではない。そうではなくて「努力」という価値を実践できる高橋さんは、その事実によって神に愛されていると確信することができる。その後に「報われる」かどうかも、神のみぞ知る。神に愛されているのであれば「報われる」のかも知れないけど、そうではなかったとして、それが神の愛の確信を揺るがすものではない。こちらだと、「証明」ではなくて「確信」になる。

議論が雑だけど、プロテスタントの予定律の世界では、必然的に神は沈黙することになる。人がどれだけ努力したって、因果律ではないのだから、何であれ人の行いによって未来が変更されることはない。神の意志は因果の外から、一見唐突に立ち現れることになる。つまるところ、そこだけを切り取ってしまえば、重力と遠心力のように、それは「運」という概念と相同になるように見える。アメリカ生活の長い秋元氏は、もしかして無意識のうちに、プロテスタント的な予定律と「運」を結びつけたんじゃなかろうか。