AKB48の旅

AKB48の旅

予定律と運

2012年09月16日 | AKB
前田敦子、高橋みなみ、指原莉乃、たぶんはっきりしてるのはこの3人だけだと思う。秋元康から特別な存在として扱われてる。理由はけっこうシンプルで、かつてから公言してきたことだけど「運を持ってる」ということ。

ちょっと前に、「無への跳躍」ということを書いた。もしかしたら意図はうまく伝わらなかったかもしれないけど、あれはけっこう因果律ではないよ、予定律だよということを言いたかった。ファーストラビットは因果律的だよ、けれども1ミリ先の未来は予定律的だよみたいな。

ちょっと考えてみると分かるけど、運というものには因果関係がない。気がつかれにくいんだけど、因果関係がないというのが「運」ということ。「努力は報われる」と言うとき、それは因果関係、つまり努力を積み重ねた結果、報われる、何ものかが得られると受け取られがちで、これだと因果律なんだけど、けれども「運」というものは、そんな努力の先に必ず得られるものではない。そうではない、人のおこないとはまったく関係なく、「運」は立ち現れる。つまり予定律。

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がある。これはかなり微妙な表現で、人事を尽くせば天命が得られるともとれるし、人事を尽くすことで天命を得る資格を得る、しかし天命が得られるかどうかは分からないともとれる。「努力は必ず報われる」は、たぶん後者に近い意味になるんだろう。

冒頭に戻って、前田敦子、高橋みなみはAKB48という「運」をつかみ取った。まさに神に愛された子。予定律的には「無へと跳躍」した先に足場があるかどうかは決定されている。けれどもその決定を人は決して知ることができない。だから試すしかない。努力するしかない。結果、神に愛されているかどうかの答えが出る。指原莉乃も同様のことが言える。

いかにもプロテスタント的な考え方になるけど、秋元康は、そんな世界観を時折披瀝してみせるように思う。常日頃は多神教的な世界観の住人にしか見えないので、このダブルスタンダードが何とも奇妙に感じられる。あるいは芸能界という弱肉強食、過酷きわまりない世界を見続けてきたからこその、現実的な折衷なのかなとは思う。