よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

怒りを忘れた人のために、上田紀行著「慈悲の怒り」

2011年07月19日 | No Book, No Life


「慈悲の怒り~震災後を生きる心のマネジメント~」を著書の上田紀行先生@東工大から贈呈いただきました。

サインまでしていただき、ありがたいものです。我ながらミーハーですね。

感想などちょっとまとめてみます。

◇    ◇    ◇

慈悲と怒りとは無縁な心象であると、多くの人々は薄々ながら前提を置いているのではなかろうか。ところが、本書の題名に端的に顕れているように、これらは決して対立する心象ではなく、怒りとは慈悲のひとつの表明形態なのである。


この本の題名を目にして、まず思い出したのが奈良は東大寺戒壇院の広目天像だ。それは瑞々しい慈悲の奥底に沸々と湧き上がる犀利にして、峻厳な怒りの情念の美術的な表象である。

怒ることを忘れてはいないか。日本は「怒り」を仏教哲学・美術にて昇華している稀有な国。欧米社会では、聖人、聖者で怒っているケースはまずない。

さて、特段、広目天像については言及はないのだが、しかるべき対象(おおむね人ではなく社会システム)に対しては決然と怒りの念をもって対処しよう、というのが本書における筆者の主張のひとつだろう。 

ところが、多くの日本人にとって、コトはそうそう簡単ではない。3.11以来、我々の心は、慈悲と怒りにも増して、悲しみ、嘆き、痛み、無力感、絶望、猜疑などの幾重にも折り重なった感情の絡み合いに脚をとわれているのではないか。

そんな問題意識のもと、本書の入り口では3.11以降の状況がわかりやすく整理されてゆく。すなわち、このような複雑、輻輳した状況だからこそ、「心のマネジメント」の大切さを訴えるのだ。 

心のマネジメントの第一歩は「モヤモヤ感」の切り分けだという。そして、しかるべき対象には決然と冷静に怒りの気持ちを臆することなく抱いて行動してゆくことが求められる。

行動する文化人類学者として著者は、ダライラマをはじめとする幾多の宗教的指導者との対話を通して、この然るべき「怒りの念」をナイーブに排除しないことを提言している。 

著者は、独自の「心のマネジメント」論を展開する上で、日本人の行動様式を規定する「空気」の存在を議論の俎上に乗せる。「社会の中に、その空気というものがまずあって、状況が最初に決められていると、我々はその状況や空気に寄り添うようなことしか言わず、状況そのものを変えるような発言や行動をしません」(p65)という。 

空気に拘束・呪縛され続けてきた日本人の姿が大東亜戦争の歴史などを簡潔にまとめられている部分は、なるほど納得である。 納得、というのは単なる迎合ではない。以前、空気と大東亜戦争について書いたことがあるからだ。(経営に活かすインテリジェンス~第2講:プロフェッショナルがインテリジェンスを学ぶ理由

そのうえで、著者は「『寄らば大樹の陰』、『長いものに巻かれろ』、なのだと、日本社会は『空気』の支配から逃れるどころか、その支配システムを強化することになります。それだけは絶対に避けなければなりません」(p144)と警鐘を発している。正鵠を得た意見だ。 

本書は、読者の自覚を試す貴重な一冊である。すなわち、各自読者が、なにを「空気」として感じ、どのような「空気」を吸っているのかという自覚の程度によって読後感は変わってくるだろう。 

一読者として勝手ながら、次のように読んだ。 

3.11災厄以降、ますます、この国の「空気」を操作・支配してきたもののひとつとして、原発のまわりの構成されてきた、政治、産業、官僚、大学、報道の利権複合体制の存在が白日のもと明らかになった。

安直な原発推進or反対の素朴な二項対置の議論に飛びつきまえに、この政・産・官・学・報の利権複合体という日本の中枢に巣食ってきた魑魅魍魎を合理的思考をもってして分析することも「慈悲の怒り」の所作の第一歩なのではないか、と。 

この本をいただく前の5月に、「原発過酷事故、その『失敗の本質』を問う」 を書いた。「慈悲の怒り」とはほど遠いものだが、自分なりのモヤモヤ感を払拭しつつ、やり場のない怒りを冷静なふりをして書きなぐったものだ。この本を読んでから、前記の文章を書いたら、もっと格調高いものになったのかもしれないが・・・。

「癒し」、「生きる意味」、「肩の荷」と続いてきた筆者の思索に今回、「慈悲の怒り」が加わった。理不尽な制度、社会システムにこそ、「慈悲の怒り」を抱き、果断に変革を迫ってゆかねばならないだろう。

怒りを忘れた人間は、唄を忘れたカナリアも同然だ。

モヤモヤ感がある人、最近、怒ってない人にとって、おススメの一冊だ。