検定試験2
現状把握のため過去の試験問題を解くことにばかりに集中して、やっていますが、過去の学説や教授法がやたら出てきて、何かおかしいのではないかと感じます。
最近では、一般的な話において西洋の学説、考え方、モデルが壁にぶつかり、東洋的な考えや日本的な考えが見直されるようになっています。それにもかかわらず、日本語を、古い西洋の物差しで、測って、それでもって、学習者に教えようとしています。
そもそも、国文法も、文明開化の折、日本国は、独自の日本語文法を有していなかったので、あわて、西洋の文法をモデルにし、まとめ上げたものが国文法であり、現在の国文法は、その延長線にあるということになります。日本語を考えるうえで、西洋の物差しで、日本語をいろいろ計って、本当に、正しく計ることができるのでしょうか。
私は、物事を理解、評価するためには、それに合った物差しが必要と考えます。方向性が合っていて、十分な長さが有り、すこしの差でもわかる様な細やかな物差です。長さが不足しますと、それ以上のものは、すべて「たくさん」でかたずけてしまいますし、細やかさが有りませんと、差のあるのが分からなくて、全て同じに取り扱ってしまいます。
例えば、庭園を例にとってみますと、西洋の庭園は、幾何学形状やシンメトリーで成り立っています。それはそれなりに美しいです。それに引き換え、日本の庭園は、そういったものは全くなく、アンバランスではありますが、それでいてバランスがとれていて、美しいと感じます。
あるいは、フラワーアレンジメントも、同じく、アンバランスのバランスで成り立っています。お花の先生は、これを、どう教えているのでしょうか?また、それは、ノンネイティブに、しっかり伝わっているのでしょうか。どんな西洋の物差しを持ってきても、日本の庭園の美しさや、生け花を説明でるとは、考え難いと考えますが、・・・・。
哲学においても、西洋の哲学では、しっくりこないので、日本的な哲学をとなえている学者もいらっしゃいます。
「敬語」や「あげ貰い」を教えるうえで、苦労するところですが、どうも、表面的な現象の説明ばかりに終わって、なかなか本質が伝わり難い。自分でやっていても、「説明のための説明」に堕しているように感じ、すっきりいたしません。
なぜ、日本において敬語が高度に発達してしまったのか。あるいは、昔の人は、敬語によって、何をどう表現したかったのかが、ある程度わからないと説明がつかないのではないでしょうか。
教授法には、心理学的なアプローチもされているようですが、心理的な現象も、最近では脳科学で説明できるようになって来ています。
脳科学で言いますと、自分が意識する前に、脳は、フライングして、物事を決断しているような点もあります。
単語を覚えるのに、昔からやっています、目で見て、声を出して、書いてやっているのは、脳科学から見ますと、理屈に叶っているそうです。
エピソード記憶にする方が、覚えやすく、年代を覚えるに、こじつけの短文を利用するのはそのためです。喜怒哀楽も激しいほど頭に残り易いので、多少バイアスを掛けて覚えるのも一つの方法です。
脳科学からのアプローチもして、学習者がエネルギーを無駄にしたり、遠回りしたりしないように、近道を教えてあげるというような方向に進んで欲しいものです。
ボランティアの日本語教室では、専門的な勉強もせず、20年も、30年も前の方法で、教えているところもあります。それでは学習者がかわいそうです。
現状把握のため過去の試験問題を解くことにばかりに集中して、やっていますが、過去の学説や教授法がやたら出てきて、何かおかしいのではないかと感じます。
最近では、一般的な話において西洋の学説、考え方、モデルが壁にぶつかり、東洋的な考えや日本的な考えが見直されるようになっています。それにもかかわらず、日本語を、古い西洋の物差しで、測って、それでもって、学習者に教えようとしています。
そもそも、国文法も、文明開化の折、日本国は、独自の日本語文法を有していなかったので、あわて、西洋の文法をモデルにし、まとめ上げたものが国文法であり、現在の国文法は、その延長線にあるということになります。日本語を考えるうえで、西洋の物差しで、日本語をいろいろ計って、本当に、正しく計ることができるのでしょうか。
私は、物事を理解、評価するためには、それに合った物差しが必要と考えます。方向性が合っていて、十分な長さが有り、すこしの差でもわかる様な細やかな物差です。長さが不足しますと、それ以上のものは、すべて「たくさん」でかたずけてしまいますし、細やかさが有りませんと、差のあるのが分からなくて、全て同じに取り扱ってしまいます。
例えば、庭園を例にとってみますと、西洋の庭園は、幾何学形状やシンメトリーで成り立っています。それはそれなりに美しいです。それに引き換え、日本の庭園は、そういったものは全くなく、アンバランスではありますが、それでいてバランスがとれていて、美しいと感じます。
あるいは、フラワーアレンジメントも、同じく、アンバランスのバランスで成り立っています。お花の先生は、これを、どう教えているのでしょうか?また、それは、ノンネイティブに、しっかり伝わっているのでしょうか。どんな西洋の物差しを持ってきても、日本の庭園の美しさや、生け花を説明でるとは、考え難いと考えますが、・・・・。
哲学においても、西洋の哲学では、しっくりこないので、日本的な哲学をとなえている学者もいらっしゃいます。
「敬語」や「あげ貰い」を教えるうえで、苦労するところですが、どうも、表面的な現象の説明ばかりに終わって、なかなか本質が伝わり難い。自分でやっていても、「説明のための説明」に堕しているように感じ、すっきりいたしません。
なぜ、日本において敬語が高度に発達してしまったのか。あるいは、昔の人は、敬語によって、何をどう表現したかったのかが、ある程度わからないと説明がつかないのではないでしょうか。
教授法には、心理学的なアプローチもされているようですが、心理的な現象も、最近では脳科学で説明できるようになって来ています。
脳科学で言いますと、自分が意識する前に、脳は、フライングして、物事を決断しているような点もあります。
単語を覚えるのに、昔からやっています、目で見て、声を出して、書いてやっているのは、脳科学から見ますと、理屈に叶っているそうです。
エピソード記憶にする方が、覚えやすく、年代を覚えるに、こじつけの短文を利用するのはそのためです。喜怒哀楽も激しいほど頭に残り易いので、多少バイアスを掛けて覚えるのも一つの方法です。
脳科学からのアプローチもして、学習者がエネルギーを無駄にしたり、遠回りしたりしないように、近道を教えてあげるというような方向に進んで欲しいものです。
ボランティアの日本語教室では、専門的な勉強もせず、20年も、30年も前の方法で、教えているところもあります。それでは学習者がかわいそうです。