3月11日午後 2時46分ごろ、マグニチュード9.0を記録する地震が東北地方太平洋沖で発生しました。
その時私は、会社の机で書類作成していたのです。
突然、携帯の緊急地震警報が鳴りだし、すぐに大きな揺れがやってきました。
あらま、と思い私はオフィスの柱のそばに寄り添い経過を見ていました。
揺れは一向に収まりません。いえ、途中でさらに大きく揺れ出したのです。
机のパソコンは踊り、フロアへ落下。
戸棚の書類は飛び散りそして電源が落ちた・・・。
長く感じた揺れは3分も続いたそうです。
社外に退去したのは良かったけど、外は雪が降ってます。
風もあり、みんなブルブル震えてました。
ほとんどの人は作業着姿、女性は制服姿です。
寒いけど、建物の倒壊も考えられ入れません。
そうした間でも、何度も強い余震が来て事態は一向に収まりそうもありません。
周りに目を回すと、隣のビルの壁には大きな亀裂が入っており、倒れてきそうです。
寒さに耐えかねてみんな防寒着を取りに社屋に入りましたが、防寒着取りに行く間も余震が来て、あわてて戻ったり・・・。
1時間位外で今後の事を相談したりしてましたが、「出られる社員は月曜日出社」と言うことだけ決めてこの日は解散。
通勤はスクータなので私は難なく帰宅できましたが、公共交通機関を使って通勤していた社員はマイカー通勤の車に乗せてもらったりでなんとか帰宅しました。
帰宅すると、家の中はとんでもない状態になってました。
玄関を開けると足の踏み場も無い。
下駄箱や、戸棚に入ったものは全て散乱。
壁に飾ってあったパネルや写真が落ち、硝子が散乱していて扉を開けた瞬間血の気が引きました。
革靴のまま上がりこみ、いるはずの かぁさんを呼びましたが返事が無い。
まさか、と思い部屋の置くまで進むとタンスは倒れ、天井が落ちたりしてました。
下敷きになってるんじゃ? と、思い かぁさんを呼びながら部屋の隙間を探しました。
この時の、捜索は本当にいやな気持ちでした。
そうしている所に次男坊と かぁさんが玄関に現れました。
家の中に居場所が無いので外に避難していたんです。
かぁさん「とうさん、ごめんTVかばって大丈夫だったけど熱帯魚の水槽守れなかったよ、金魚の水槽も割れちゃった・・・。」
かぁさん「しょう(次男)、金魚6匹のうち4匹拾ったけど、その時硝子で手切ったけど金魚守ったんだよ」
私「そうかぁ。ありがとう。でもいつも言ってるでしょ、いざとなったら自分を守るようにしなさいって!」
そして家の片付けを始めました。
まず最初に玄関の片付け。
入り口から片付け始めたけど玄関、からトイレ~リビングの入り口まで行った所ですでに薄暗くなってきていたのでこの日はわが家での就寝を断念。近くにある小学校の避難所に身を寄せました。
避難所は大勢の人が入っており歩くのもままならない位のぎゅうぎゅう状態。
電気が来ていないので発電機回して投光器での照明です。
夜には配給のオニギリとミネラルウォーターが配られました。
この配給がとてもありがたかった。
避難所での滞在は義母と叔母、子供達、義弟とし、私は実家の平屋で夜を過ごすことにした。
30年以上前の古い家なので余震が来ると倒壊するかも?
そんな危惧を感じながらの夜でした。
さて、電気・水道・ガス・通信(携帯)が途絶えており情報元はラジオのみ。
ラジオ付けて、懐中電灯の灯りでの就寝です。
就寝といっても、いつでも外に避難できるようにジャンパーを着、下はズボンの上にウィンドブレーカ着用です。
ポケットには懐中電灯、携帯ラジオを入れています。
その状態での就寝は1週間も続いたのです。
つづく。
よろしかったらポチッお願いします。
↓
その時私は、会社の机で書類作成していたのです。
突然、携帯の緊急地震警報が鳴りだし、すぐに大きな揺れがやってきました。
あらま、と思い私はオフィスの柱のそばに寄り添い経過を見ていました。
揺れは一向に収まりません。いえ、途中でさらに大きく揺れ出したのです。
机のパソコンは踊り、フロアへ落下。
戸棚の書類は飛び散りそして電源が落ちた・・・。
長く感じた揺れは3分も続いたそうです。
社外に退去したのは良かったけど、外は雪が降ってます。
風もあり、みんなブルブル震えてました。
ほとんどの人は作業着姿、女性は制服姿です。
寒いけど、建物の倒壊も考えられ入れません。
そうした間でも、何度も強い余震が来て事態は一向に収まりそうもありません。
周りに目を回すと、隣のビルの壁には大きな亀裂が入っており、倒れてきそうです。
寒さに耐えかねてみんな防寒着を取りに社屋に入りましたが、防寒着取りに行く間も余震が来て、あわてて戻ったり・・・。
1時間位外で今後の事を相談したりしてましたが、「出られる社員は月曜日出社」と言うことだけ決めてこの日は解散。
通勤はスクータなので私は難なく帰宅できましたが、公共交通機関を使って通勤していた社員はマイカー通勤の車に乗せてもらったりでなんとか帰宅しました。
帰宅すると、家の中はとんでもない状態になってました。
玄関を開けると足の踏み場も無い。
下駄箱や、戸棚に入ったものは全て散乱。
壁に飾ってあったパネルや写真が落ち、硝子が散乱していて扉を開けた瞬間血の気が引きました。
革靴のまま上がりこみ、いるはずの かぁさんを呼びましたが返事が無い。
まさか、と思い部屋の置くまで進むとタンスは倒れ、天井が落ちたりしてました。
下敷きになってるんじゃ? と、思い かぁさんを呼びながら部屋の隙間を探しました。
この時の、捜索は本当にいやな気持ちでした。
そうしている所に次男坊と かぁさんが玄関に現れました。
家の中に居場所が無いので外に避難していたんです。
かぁさん「とうさん、ごめんTVかばって大丈夫だったけど熱帯魚の水槽守れなかったよ、金魚の水槽も割れちゃった・・・。」
かぁさん「しょう(次男)、金魚6匹のうち4匹拾ったけど、その時硝子で手切ったけど金魚守ったんだよ」
私「そうかぁ。ありがとう。でもいつも言ってるでしょ、いざとなったら自分を守るようにしなさいって!」
そして家の片付けを始めました。
まず最初に玄関の片付け。
入り口から片付け始めたけど玄関、からトイレ~リビングの入り口まで行った所ですでに薄暗くなってきていたのでこの日はわが家での就寝を断念。近くにある小学校の避難所に身を寄せました。
避難所は大勢の人が入っており歩くのもままならない位のぎゅうぎゅう状態。
電気が来ていないので発電機回して投光器での照明です。
夜には配給のオニギリとミネラルウォーターが配られました。
この配給がとてもありがたかった。
避難所での滞在は義母と叔母、子供達、義弟とし、私は実家の平屋で夜を過ごすことにした。
30年以上前の古い家なので余震が来ると倒壊するかも?
そんな危惧を感じながらの夜でした。
さて、電気・水道・ガス・通信(携帯)が途絶えており情報元はラジオのみ。
ラジオ付けて、懐中電灯の灯りでの就寝です。
就寝といっても、いつでも外に避難できるようにジャンパーを着、下はズボンの上にウィンドブレーカ着用です。
ポケットには懐中電灯、携帯ラジオを入れています。
その状態での就寝は1週間も続いたのです。
つづく。
よろしかったらポチッお願いします。
↓
知りませんでした
コメントを頂いたりしていたので何ともなかったのかと・・。
私は1日だけ県外に逃げて後は車の中に数日
怖くて家では眠れませんでした
余震、早くおさまるといいですね~
本当にご家族&ご親族が無事で良かったです。
まだまだ下から突き上げる余震があるから安心は出来ないけど、どうかもう2度と避難所生活になりませんように…
今も避難所で暮らしている方達も、1日も早くもとの生活に戻れますように…
仕入れ大変だろうけど、みんなに元気を分けてあげてね
今日は、食器棚やクローゼットの耐震強化してました。ネタ無くなったら、その成果をお披露目しますよ