本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

LOVEの仏教的見方

2018-05-20 21:25:09 | 住職の活動日記

昨日のヘンリー王子の結婚式で

牧師さんがやけにLOVEを連発して

おられました。

やはりキリスト教では

神の愛というものが中心課題

のように思います。

仏教では愛というと、

愛着とか渇愛と言って煩悩の

一つでもあります。

 

ところが、

L・O・V・Eの成り立ちは

LはListen、聴く

OはOverLook、見つめる

VはVoice、声をかける

EはExcuse、赦す

ということで、

その内容をみていると

どうも仏教の問題とも重なる

ような気がします。

 

お経の最初の文句は

「如是我聞」という

聞くということから始まります

また、

聞思修(もんししゅう)といって

修行の第一歩も「聞」

まず自分を無にして聞く

といいうことです

そして、

聞くということは

相手を認めると同時に

自己否定といいう

二つのことが成り立っている

ということです

さらに自己否定ということは

真実に触れる根本的立場

でもあります

俺が俺がと言っていたのでは

真理に触れることは絶対ない

ということです。

 

見つめるということも

親という字は分解すれば

木の上に立って子を見つめる

ということにもなります

見るという字は

観音さまの観という字も

世の中の姿を見つめる

止観といえば静と動

実相を見るには止という

心を一点に集中する

そのことは同時に

観ということが成り立つという

また、

お釈迦さまの説かれた

最初の修行の徳目は

「八正道」

八つの正しい道

その中心はただしい見方

正見(しょうけん)です。

英語ではover・look

ということも

見つめることだけではなく

仏教では中心の問題でも

あります。

 

声をかける、ということは

仏教で菩薩の修行に

「四摂法」(ししょうぼう)

ということがあります。

布施・愛語・利行・同事

ということです

愛ということも、ここで言う愛は

煩悩の愛とは違っています

相手の立場に立って、

相手の身になって声をかける

人は言葉によって救われ

心無い言葉によって傷つく

それほど言葉とは大切です

十善戒の中でも

言葉に関する諌めが四つあります

妄語、綺語、悪口、両舌

綺語とはお世辞ですが

一見、

人に対して心地よくするように

思うのですが

あまり言いすぎると

自分の真心までなくしてしまう

そういう恐れがあります

ですから、

単に声をかけるといっても

空言戯言になってしまては

それこそ人を傷つけてします

だから、

声をかけるといっても

あだや疎かに出来ないもので

本当に親身になるということが

大切です。

 

EのExcuse赦すということが

どうも仏教的ではないような

当てはまらないような気がします

ゆるす、には

赦・許・恕などいろいろあります

許は、それでよいと認めてゆるす

恕は、あわれんでゆるす

赦は、つみをゆるす。

というように使い分けがありますが

なにかしら

上下関係のような

上から目線で、ゆるす

というような感じがします。

 

仏教には「一切衆生悉有仏性」

一切の生きとし生けるものには

仏性があるのだと、

仏の魂を宿している

というのです

このことは具体的には

俺だけが仏の魂をもている

という

俺だけがということも

いわせないし、

また、

自分はもう駄目だともいわせない

そういう厳しい言葉でもあります

だから、

あらゆる人間は、賢い人も

愚かな人も、偉い人間も

さとった人間も

さとらん人間も区別はない

さとるさとらんは時間の問題だと

我々は、ただ迷った人間

というだけでなく、

未来の仏という意味も持ている

そういう平等の立場が

私たちであって

ゆるすとかゆるさんというのは

どうも上下関係において

あるような気がします。

 

そういうことからすると

L・O・V・Eということも

ただ単なる今で普通に使っている

「愛」ということより

もっと深い宗教的意味を持っている

のではないでしょうか。

 

 

 

 

 

コメント
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