本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

孤・蝶・乱・舞

2018-05-19 21:08:57 | フラワー

花の王様「胡蝶蘭」

蝶が並んで休んでいるような花

ちょうど今日の花は

飛び回っていた蝶が一休み

その場面ではないかと

勝手に想像を膨らまし、

 

 

眺めていました。

 

 

全体の姿はこうです

胡蝶蘭を中心にカーネーション

枝ものが綺麗な流れを

作っています

 

 

この花も見れば見るほど

不思議な形をしています

 

 

これから蝶も活躍する季節

花も咲きほこり

蝶も蜜を求めて飛び回り

自然のいとなみが

それぞれ一生懸命の姿を

見ることができます。

 

我が家でも今は

ピンクのカーネーションが

 

 

今見ごろと咲き誇って

 

 

假屋崎さんによるとカーネーションは

使いやすく日持ちもするし

活躍の場も幅広いということです

 

 

ほったらかしにしていた

アマリリス、

今年はにょっきり顔を出しました

これから開いていくのが楽しみです

 

 

表の緑のスペース

本来はピンカミノールの居場所です

どこからきたのか

ドクダミの花

雑草なのは薬草なのか

雑草とみると地下茎で広がり

駆除も難しいとか

十薬ともいわれるように

干してお茶にすると

重宝される薬です

 

 

花を見る限り

山法師のように白くて清楚

 

 

葉っぱも食べられた所を見ると

この薬みたいな葉を食べる

虫もいるのですね

さぞかし元気になっているかも

しれません。

 

 

久しぶりに玄関に花が入りました

勝手な想像をしながら

楽しみたいと思います。

 

 

 

 

 

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わかるようでわからない、わからないけどわかる

2018-05-18 21:36:10 | 十地経

仏教の話は難しい!!

わかるかといえば、

なんとなく、

けどわからない、

かといって、

まったくわからないかといえば

そうでもない、

ぼんやりとわかるところもある。

 

朝からヨーガに励む

たっぷり汗をかいて

夕方4時からは聞法会

唯識もヨーガ学派といっています

ヨーガの体操と

唯識という人間の心理学

どこでどう結びつのだろう。

 

聞法会も休みなしで3時間続く

結構疲れる

今日ちょっと不思議な体験したのは

朝からのヨーガで体のゆがみをとり

まあ一応、基本の形になったような

そのおかげか

足を組み替えながらの半跏坐で

姿勢も正しく持ち堪えた。

 

聞法ということも

ただ聞くというだではなく

集中力もいるし

身体がぐらぐらしていたのでは

なかなか聞けないのです。

とうことは

今朝のヨーガの体操は効果が

あったのか??

 

今ではヨーガという体操の面だけが

注目されがちですが

その根底には教えを聞きつづける

という、基本的な身体づくり

ということが要求されるのでしょう

 

なかなかですが

教えを聞くということも

自分を無にしなければ

聞けるものではありません

あれやこれや自分に都合がいいとか

考えていると

話しはどんどん進んで行き

とうとう話についていけなく

なります

耳に入って来るものを

好き嫌いを越えて聞けばいい

身体中を耳にして聞きなさい

という三浦先生の言葉を

思い出します。

 

よく考えれば

わかる話というのも

あやしいもので

自分の頭にわかるような話であれば

そんな話たいしたことはないのです

自分を超えた話であれば

解らぬのは当然です。

かといって

まったくわからない、

異質な話かといえばそうでもなく

わからないけど、

心の底に何かしら響いてくる

そういうことは感じとれるのです。

 

「不思議」

ということをいいますが

「ふしぎちゃん」

という言葉もありますが

思議することを否定しているのです

思議すべからず、という

人間の理解を打消している

浅はかな人間の考えなんて

たかがしれている

そんなものを持ち出して

本当の話を聞くな

ということでしょう。

 

一切のはからいを捨てて

素直に耳を傾ける

そこに聞法の大切さがあるように

思うのです。

自分の頭で噛み砕けないような話

そういう話の場に身を置くという

そういうことが大切だと思います

儲け話でもなく、

かといって

上手に持ち上げてくれる話でもなく

どちらかというと

自分に都合の悪い話

そういうわからない話に

たまには耳を傾けるのも

大切なことです。

 

聞くためには

身も心も柔軟にしておく

そういうことで聞法とヨーガ

つながりがあるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

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「機」の活用形

2018-05-17 19:44:44 | 漢字

テレビのテロップに

「心の機微」という文字が、

ふと、勝手ながら

心に関するのであれば

「機」は「気」の方がいいのでは

と思ったのです。

調べて見るとやはり気ではなく

「機」であると、

なぜこの機を使うのか?

 

本来は機織りの道具

そこから、始動を与える道具となり

ひいて、からくり・きざし・おり

というような意味が出てきた。

からくり仕掛けから「機械」の文字

きざし、事が起こるきっかけ、契機

物事の主要な部分、かなめ、枢機

おり、しおどき、機会。天機という

そして、

こまやか、かすかという意味から

「機微」という言葉が生まれた

ということです。

 

一般的には「機」というと

機械という言葉がまず浮かびます

しかし、

こういう幅広い意味があって

勿論、仏教に関する言葉も

たくさんあり、

重要な内容をもっています。

 

「ご機嫌いかが!」

ということも、気分とか気持ち

というように使いますが、

本来は仏教語で、

人のきらうこと。

そしりきらい不愉快に思うこと

とあります。

また、機縁という

仏に会うチャンスを以ている

ということもあり、

「機」ということは

仏教では大事な言葉になります。

 

「機」も厳密に分けて

①微ー仏の教化によってめざめる

   微かな善をもっている

②関ー仏の教化と私たちの素質が

   相関関係にある

③宜ー仏の教化に宜しきかなう

という、

三つの意味がありようです。

 

簡単には私たちは縁に合えば

仏になるという

可能性をもっているということに

なるのではないでしょうか

辞書にはもっと細かく分けて

丁寧に説明してあります。

 

林先生の話ではないですが

「今でしょう!!」

という、

仏になるチャンスはいつあるんだ

と聞かれれば、

今でしょう。

ということになると思います。

 

三帰依文の最初に

「人身受け難し今既に受く

 仏法聞き難し今すでに聞く

 この身今生に於いて度せずんば

 さらにいずれの生においてか

 この身を度せん」

という言葉があります。

この身今生に於いてというのが

まさに今といことでしょう

死んでから先でもない

今しかないんだという

 

人として生まれたというチャンス

そして仏の教えを聞くチャンス

そういう大切な機会をもって

生れてきたのが

私たちの今ということなのです。

 

という一面と、

覚鑁(かくばん)上人の

『密厳院懺悔発露の文』に

「我等懺悔(さんげ)す

 無始よりこのかた

 忘想に纏われて衆罪を作る」

という一文があるように

私たちの存在を見つめてみると

煩悩だらけの身で、自分勝手で

本当のことを知ろうとしない

そこから、無痴である故に

たくさんの罪を造っている。

 

そういう一面もあるのです。

可能性としては仏になる種を

もっている

その機縁に合うかどうか

ということと、

煩悩熾盛の身であるという

この深い認識もなければ、

ただ単に仏に会えるのだという

簡単な問題でもありません。

 

言い尽くせませんが

「機」ということは

自分にとっても最重要課題

ということでもあります。

 

機織りの道具という「機」が

自分の存在を知るチャンスにもなる

という奥深い意味を持った

言葉のようです。

 

 

 

 

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初夏の唐招提寺

2018-05-16 19:48:57 | 住職の活動日記

なんだか理由はないのですが

とても落着くお寺「唐招提寺」

ちょっとした合間を見つけ

出かけて見たくなります。

 

 

今日も30度を超えています。

南大門を入ると金堂が見えてきます

ゆっくりと境内の木陰の中を散策

菖蒲の花も美しい

 

 

上手に活けられています

 

 

西の端にある「戒壇」

壇の上部には塔婆らしき形が

みえます

 

 

パンフレットには解説がありません

戒律を授けた壇が築かれていたのか

西北隅には

「醍醐井戸」があります

 

 

ここで修法の水を汲むのです

 

 

さほど美しくは見えませんが

ビデオを出見ると美しい水が

汲めるようです

 

 

開山堂、鑑真上人の御姿が

お祀りしてあります

今は複製の像ですが

本物と寸分変わらぬ姿です

 

 

そこから見下ろす東室(ひがしむろ)

僧房です

やはり東寺と同じで三面僧房で

今は西の室は無くなっています

 

 

東の室は中央の馬道(めどう)という

通路で南北に分けられ

礼堂(らいどう)と東室という

具合になっています。

 

 

ここの経蔵と宝蔵もとても美しい姿

手前が経蔵奥が宝蔵です

共に国宝というだけあって

シンプルな姿が往時の姿を

残しているのでしょう。

 

 

黄菖蒲の群生

 

 

黄色も珍しい、

私が知らないだけかもしれません

 

 

その姿に見とれていました

 

 

唐招提寺はまあまあ小ぶりなお寺で

ゆっくり歩くにも足にも優しい

この広さに盛りだくさんに

歴史が詰まっているのが楽しい

 

 

ちょっとした森で

さほど手が入ってないような

自然を生かした手入れの仕方が

心安らぐものです。

 

明後日、5月19日は

中興忌梵網会(うちわまき)

面白い形のうちわが準備されて

お坊さん方もその準備で

忙しそうでした。

 

 

 

 

 

 

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スカイラインとベンツの意外な関係

2018-05-15 17:03:33 | 住職の活動日記

私たちの若い頃

「スカイラインGTR]という車は

垂涎の的でした。

知り合いの方でこの車を最近まで

愛用しておられました。

ピカピカに磨いて、

走るたびに横に来て

「お譲りになりませんか」

と声をかけられたそうです。

いよいよ、年のこともあって

手放されたそうですが、

 

最近の傾向として

若者のクルマ離れがあります

車よりもパソコンとかゲームとか

憧れの車というものがない

という声も聞きます。

 

一時期は技術の日産といわれ

日産自動車は一世を風靡していた

のですが、経営不振で

フランスのルノーと統合され

かのゴーンさんの手腕で

今では電気自動車で一歩先んじて

いるようです。

 

先日の新聞記事、

メルセデスベンツの筆頭株主に

中国の会社がなった、と

それまではアラブの王様が

筆頭株主だったようです。

その株主の第3位につけているのが

ルノーという会社です。

何とも面白い構図です。

 

やはり、合理的な考えのゴーンさん

2000CCのエンジンの開発に

時間と費用をかける位なら

株主であるルノーの力で

ベンツのエンジンを持ってきた

というのでしょう。

今のスカイライン2000GTには

ベンツのエンジンが乗っかって

いるのです。

ここにも車業界の意外なつながり

が見えてきます。

 

車業界もこれから

人口は減っていくし

若者のクルマ離れ

団塊の世代が免許を返納と

ますます、

車離れが進むのではないかと

それにもまして

これからは排気ガスの問題もあり

電気自動車にシフトが

移ってきています。

 

あまり関係ないのですが

車好きの私としては

他人事ながら心配しています。

内燃機関が電気に変わる

車が電気製品になる。

あのエンジンの響きがなくなり

スーッと走っていく車

何だかさびしいような

そのんな中、

ベンツは新しい直6のエンジンを

開発したとか

電気も開発しつつ

エンジンも更に開発している

やはり好きな人たちが集まっている

ということでしょうか

 

マツダも同じように

排気ガス問題も

単に車だけでは見るのではなく

石油を掘る井戸から車までと

長いスパンで排ガス問題を

考えているようです。

単に電気にしたからといって

その電池を作るために

どれだけの電気を使っているのか

それよりも勝れたエンジンの開発で

省エネをして行こうという

考え方のようです。

 

これからますます、

車業界も大きな変化がある

のではないでしょうか?

といいつつも、

そういう私にとっては

免許を何時返納するか

そっちの方が大きな問題です。

 

しかし、

車というあらゆる産業の

集約されたような代物

その進化というのは見続けて

いきたいものです。

 

 

 

 

 

 

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愛は力なり!

2018-05-14 21:12:21 | 住職の活動日記

人を愛し、妻を愛し、仕事を愛し

住んでいるところを愛すれば

必ず成功する秘訣といわれています。

なるほど

そうすれば愛は力を発揮するものです

 

「愛」ということも

普通に使う場合と仏教でいう場合と

ではまったく意味が違ってきます。

 

英語ではLOVEです

Love is force made

といえば、「愛は力」

ということのようです。

 

愛をLOVEと誰が訳したのだろう

そう思って調べると

Listen 人の話を聞く

Over Look 周りを見つめる

Voice 声をかける

Excuse 赦す、ゆるす

の頭文字をとってLOVEに

なったということです。

ラブといってもただ愛するだけでなく

そこにもう少し深い意味が

潜んでいるようです。

 

漢字でいう「愛」は

原義はものをめぐむこと、

ひいて、いたわるという意味に

そこから、いつくしむ、かわいがる

あいする、というような意味が

でてきたようです。

 

仏教では「愛」といえば

煩悩の一つで

貪り執着すること。

渇いた者が水を求めて

止まないように、渇愛とも

言われています。

「貪」むさぼりの心で

ちょっと欲しいな、

という思いが愛になります

それが発展して、

どうしても欲しいとなると、

「取」という心に、

いろいろ理由付けを考え

それは自分にとってどうしても

必要なんだと、となった心です。

そうしていろいろ努力する心を

「有」といいます。

 

ほしいという「愛」の心は

どうしても欲しいと「取」になり

どうやったら手に入れられるかと

努力工夫する心を「有」といいます

仏教で、

「愛は力なり」ということは

小さな欲しいという心も

ほっておくと、取・有、と

発展して力を持ってきて

自分で制御できなくなる

ということになります。

 

ただ、「愛」でも

善い方に使う場合もあります

菩薩の修行法の中に

「四摂の法」(ししょう)

ということがあります。

布施摂・愛語摂・利行摂・同事摂

のなかで、相手を思いやり

まごころの言葉をかけることを

愛語といいます。

同事・というのは

同じ心になるということで

子供が痛い痛いと泣くとき

どうしてこうしてと

理屈を言うより

一緒になって痛いね、痛いね

といってあげるように

上から目線ではなく

同じ目線になるということです。

 

最近では「愛」という言葉も

一人で勝手に歩きだし

それぞれの思惑で使っている

ような気がします。

LOVEということも

本来は人の話を無心になって聴き

そして、見守り続け

元気をなくしたら声をかけ

失敗しても間違っても許してあげる

そういう寛大な心を頭文字をとって

LOVEとしたのは名訳だと思います

 

仏教でいう愛も

あだや疎かに出来ないし

英語のLOVEという愛も

私たちが考える簡単な愛

でもないということも

慎重に考え直さなければ

いけないような気がします。

 

 

 

 

 

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一水四見の喩え(いっすいしけん)

2018-05-13 17:13:02 | 住職の活動日記

昨日とは打って変わって

朝から雨

宇治には洪水注意報も出る

きつい雨です。

 

この雨で木々たちは

 

 

喜んでいることでしょう

 

 

これから葉を茂らせて

力を蓄え

秋には紅葉を見せて

一年の働きを終えます。

 

そこに雨を喜ぶように

青ガエルが出て来ています

 

 

 

最近は蛙の姿を見ることも

少なくなりました

カメラに驚いたのかあわてて

壁に飛び移りました。

 

 

カエルにとってはこんな壁なんか

へっちゃらで飛びつくのですね。

 

激しい雨の中を歩くのは

いっぺんに足元はずぶ濡れです。

 

一つのたとえとして

「一見四水」

ということがあります。

一つの水でもそれを見る人によって

全く違った世界になります。

 

この言葉は、

一境四心とも一処四見ともいいます

見るものによっては同一のものも

異なったものとして見える

ということです。

私たちにとっては水ですが

魚にとっても棲家であり

餓鬼にとっては膿血と見え

天人にとってはたくさんの宝石で

荘厳した地とみる

ということです。

 

今日はたまたま唯識の講義

こういう考え方も

唯識の考え方でしょう。

 

環境というものは

そういう世界があるのではなく

私たちが作り出している

ということです。

今日の雨も激しい雨

こんな日にこんなに強く降らなくても

と思うかもしれません

しかし、

天気が続きカラカラの状態では

やっと降った恵みの雨

ということになるでしょう。

 

(わかりませんが)

カエルさんにとっても

今日は体を潤してくれる

恵みの雨だったかもしれません。

昨日の山法師も

乾いた状態の方が木にはいいという

水を遣りすぎて根腐れをおこす

雨が続きすぎると

山法師にとっては苦手なこと

かもしれません。

 

私たちも

同じ一つの世界にみんながいる

のではなく

それぞれがそれぞれの世界を

作り上げて

それぞれの世界を見ている

ということです。

 

一つに世界にAさんもいて

BさんもいてCさんもいると

思っていたのですが

そうではなく

AさんはAさんの世界があり

BさんにはBさんの世界があり

同じというのは

どこかの接点で同じものを共有

していることがAさんとBさんの

つながりということでしょう。

 

水といっても

それぞれの境遇では

全く違った世界になり

山に登って飲む水は

それこそ甘露の水でしょうし

普段の生活ではただの水か、と

美味しいジュースの方がよかったと

 

同じ町に住んでいても

花の好きな人、グルメの人

お酒の好きな人、と

それぞれ、自分の感心によって

町を見ているのです。

 

一水四見という喩がありますが

こういうことがわかると

相手の方も理解ができるのでは

と思うのです。

自分の見ている世界観を

相手に押し付けても

お互いに困ります。

それぞれがそれぞれの世界を

もっている

家庭といえどもそうだと思います

それぞれの世界がどこか一点で

接している

その点で共通のことを

理解しあえている

ということが仲良くいっている

ということでしょう

全員が同じ世界にいる

のではないのです。

小さな子供といえども

やはり一つの世界をもっている

ということです。

 

こういう考え方も

大切なことではないかと思います。

 

 

 

 

 

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山法師の白い花

2018-05-12 21:08:36 | フラワー

五月晴れ、

気持のいい風が吹き抜け

二階から見ると

山法師に白い花が4輪ほど

咲いています。

 

 

やっと根付いて

今年は昨年にも増して

鮮やかな葉を茂らせました。

昨年は虫にやられ

あの、緑のトゲトゲ虫です

下を通ったときに

はずみで触れたのでしょう

激痛が走り腫れあがりました。

 

 

この花も下から見上げる分には

見えません

上から見下ろすと

葉の間に白い花をのぞかせ

風も吹き抜け

気持ちよさそうに揺れたいます

 

 

初々しい葉を伸ばし

秋口には紅葉して

冬が来て葉を落とすまで

楽しむことができます。

 

 

山法師、よく名づけたものです

坊主頭に白い衣を着ているよう

宇治に移り、

何の木を植えますか、

なにかしら、迷わず「山法師」

と答えてしまいました。

これからは衣も着ることも

少なくなると思い

せめて木だけは衣を着ていてほしい

ということだったのかもしれません

 

今日伸びすぎた枝を切ったのですが

木の性質としては

粘り気があって固いということです

木槌や水車の歯車とか

器具材料としての利用価値があり

ということで

昔は重宝されたのでしょう

細い枝だったせいか

固さと粘り気ということは

感じませんでした。

 

 

明日からは又雨の予報

今日の日差しを楽しんでください

 

本当に爽やかな姿は

落着いた印象で

花言葉は「友情」ということです

 

 

 

 

 

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「陰徳を積む」

2018-05-11 21:20:00 | 住職の活動日記

ちょうど通りすがりに

信号待ちで止まっていると

 

 

京都文教大学の門前に

「陰徳を積む」の言葉が

飛び込んできました。

この学校の創設者

「大島徹水」とあります。

東京芝の増上寺の法主にもなられ

政財界からも尊敬を集めた方と

ものの本にあります。

 

確かに、

「陰徳を積む」ということは

修行の根幹です。

ひねくれた私には

陰徳を積んでその先に

何を求めているのだろうかと

勘ぐってしまいます。

本当は徳というものは

表に現れないから

徳というのでしょう。

 

よく、三浦先生からも

「恩はきせるものでなく

恩はきるものだ」と

教えられていました。

どうしても、

ちょといいことをすると

恩を売りたくなるものです。

 

今、読んでいる

金子大栄先生の本の中にも

あるお寺にお説教に行った

休憩時間で待っていると

なかなか休憩時間が終わらない

様子を聞くと

今日頂いたお布施の名前を

読み上げているところです

ということです。

仏さまにあげたのだから

いちいち名前を呼ばんでも

よさそうなものと思ってましたら

名前を読み上げなかったら

お布施が上がらなくなった

ということで、

たとえ少なくても読み上げる

ということだったそうです。

 

名前ひとつにしても

というか、名前程大事なものはない

ということです

これも名誉欲のひとつでしょう。

 

ということもあり

些細な所にも人間の欲は潜んでいて

本当に陰徳を積むというのは

難しいことなのです。

 

布施の行にしても

人にものを施すという

それも自分にとって一番大切なもの

それを投げ出すというのです

しかし、

その反面何かを期待して

施す

廻りまわって自分にいいことが

返ってくるかもしれない

そういうソロバンが

人間の徳行の中には潜んでいます

 

そのことを打ち消すのが

陰徳ということです。

 

このことは特に

お釈迦さまの前世物語

ジャータカというお経に

説かれています。

全編を通じて陰徳の物語です

 

京都文教大では

あえて、

この言葉を掲げられたのでは

ないでしょうか

女性は本質的に自己犠牲というか

無償の愛というか

自分を投げ出すという

そういうものが備わっている

そのことをどうか忘れないでほしい

そういう願いで

「陰徳を積む」

という言葉を掲示されたのでしょう

 

出来そうで

いざやってみると

口には出さなくても

なにかしら、やってやった!

という恩着せがましい

態度や遠回しの言葉が

でるものです。

 

あらためて考えると

貴重な言葉です。

 

 

 

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新緑の背割提

2018-05-10 21:10:03 | 住職の活動日記

ここのところの気温の変化には

身体の方がついていきません。

何となく風邪のような、

咳やら悪寒のような体調不良

天気も良くなり

久しぶりにお散歩へ

 

 

 

さくらも終り背割提は

新緑に覆われています

最近ではここのスポットも桜の名所

その時期は近づけないほどの

賑いをみせています。

 

 

丁度いい木陰を作り

今日の風は少し寒さも残り

ゆっくり歩くには肌寒い

 

 

葉を茂らせたエノキは

その大きさ、その枝ぶりに

圧倒されます

 

 

遥か向こうには男山

石清水八幡宮の山が望めます

 

 

さくらの時期も過ぎて

人通りもなく、

緑のシャワーを独り占めです

 

 

足元にはタンポポが風に揺れ

そのせいでしょうか

花も小ぶりようです

 

 

花のすがたもいいのですが

新緑の美しさは格別

この時期の方が植物の勢いを感じ

とても素敵な形のようです

 

 

向うには木津川に架かるごこう橋

その向こうが男山

 

 

ほとんどが桜なのですが

時折、エノキの大木も見かけます

大きく伸ばす枝は

自然のままであり

そこには美しさもあります

 

 

先程のごこう橋は2本あって

この橋は宇治川にかかるごこう橋

 

 

こちら側は木津川に架かる

ごこう橋(御幸橋)

京都と大阪を結ぶ京街道の

要衝の地

昔は舟の往来が盛んで

今は車の交通量も多いようです

 

 

橋のたもとには紫色の…

 

 

よく見ると、

えんどう豆?でしょうか

小さなさやに入った豆があります

 

 

京阪電車も走り去り

近くには国道や高速道路も通り

やはり今も昔も要の地には

違いないようです。

 

明日からは又気温も上がって

今度は暑い暑いの日が続くのでしょう

久しぶりのちょうどいい

お散歩日和でした。

 

 

 

 

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