本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

不即不離

2018-05-26 20:41:24 | 十地経

「不即不離」

つかず離れず、ということですが

辞書には

二つのものがつきもせず、

離れもせずの関係にあること

とあります。

広辞苑には、仏教語として

生死と涅槃のように二つの概念が

矛盾しつつ背反しないこと。

と載っています。

 

『十地経』のなかに

「家不断の行」

という一文が出てきます。

そして続けて

「而も貪欲の行事を示す」

と出てきます。

なかなか難しい文ですが

安田先生の「十地経講義」では

貪欲の行事とは結婚というような

意味であると、

 

十地経では面白いもので

普段我々が直面する問題にも

丁寧に答えています。

 

経文は続けて

「貪欲に随順する煩悩使を遠離す」

と出てきます

煩悩使とは煩悩の使いということで

使ということも煩悩の意味で

煩悩の奴隷という意味です

私たちが起した煩悩の奴隷に

使われてしまうということです。

 

家不断の行、というのは

家が断絶せん行ということ

何か矛盾のようですが

貪欲に従う煩悩を遠ざけるけれども

而も貪欲の行を行ずる

というように出てきます。

 

講義の中では

結婚せんと気張るのでもないし、

結婚を待ち焦がれる

というのでもないし、

普通の生活をしとるじゃないですか

煩悩も与えられたもの

煩悩を起こしては悩むけど

悩むものも与えられたもの

与えられたものだけど

それに使われない

煩悩を私するから使われる

我が入ると使われてしまう。

何か、自分だけは

結婚せんといってですね

高踏的に生きるんじゃなしに、

誰でも結婚しとる、人間は。

大地に人間にかえる、人間らしい

何も好きだとかいうんじゃなしに

普通の人間としての

宿業を生きていくということです

 

家庭を逃げだすのでもないし

かといって

家庭の中に埋没するのでもない

そこに満足して、

家庭が一切だというのでもないし

家庭から恐れ逃げ出すのでもない

家庭におって家庭を超えている

超えているけど

かえって家庭に背かんと。

 

こういうようなことを

何か、不即不離、というと

あっちついたり、こっちついたり

二股膏薬に見えるけど

そうではなく

極めて自然なことじゃないかと

逃げも隠れもせんと

いつでも世間の中において

世間を超えて世間に安住する

 

というようなことが述べてあります

「不即不離」

ということも

なかなか微妙な問題で

人との人間関係も

こういう間柄が保てたら

素晴らしいのではないかと

思います。

 

煩悩が起こらなければ

家が断絶してしまうし

かといって

煩悩の奴隷になって使われて

しまっては

自分を見失ってしまいます

経文の中では

「而も貪欲の行事を示す」

難しい言葉で書いてありますが

これを結婚、家庭の問題として

読み解かれる

安田先生の講義は

非常に興味深いものです。

 

 

 

 

 

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