本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

五力

2016-07-25 20:36:42 | 十地経

お坊さんが修行する実践項目に

三十七道品、三十七菩提分法

ということがあります。

お釈迦さまが定められた

修行の方法です。

その中に、「五力」という項目が

出てきます。

 

五力とは

信力・勤力・念力・定力・慧力

の五つです。

この五つの力は自分の悪を破る

ということに力がある

ということです。

簡単には、

信力とは信仰の力、

勤力とは努力する力

念力とは憶念不忘というように

聞いたことを深く心におもって

忘れないということ、

定力とは禅定に入り

心が定まったことから出てくる

力です。

最後の慧力は智慧の力ということです。

 

この力ということは

他から持ってくるものではなく

本来自分自身に

備わっているものです。

しかし、備わっていても

そのままでは眠った状態です。

やはり、それを見出すには

努力するということが必要です。

努力して作ったということでもなく

あったものを再確認するという

本来与えられていた能力を

もう一度見直してくるということです。

 

しかし、おもしろいもので

力を得た人は賜ったということを

知るのではないでしょうか。

自分が得たのではない

得て見ればそれは賜ったものだと

そういうことが言えると思います。

 

自分の努力で勝ち取るんですが

得て見ればそれは賜ったものだと

謙虚に受け取れるのでは、

自分が努力で勝ち取ったと

自分の努力で作り上げたと

そういっている間は

本当の力は出てこないのでは

ないでしょうか。

 

だから、力というのは身に付いた

ということでしょう。

「薫習」(くんじゅう)という言葉が

唯識の方でいわれます。

香りが身にしみて行く、

バラの花にハンカチを被せると

その香りはハンカチに移っている

そのように、良いことにしろ

悪いことでも、そのような環境にいると

自然に身に染まって行くものです。

 

力を勝ち取るには

努力が必要ですが、

努力した、といっている間は

身に染まっていないのでしょう。

その努力したことも

自然に忘れるように身に付いてこそ

本当の力になってくるのです。

 

力ということが自由自在に

発揮できるのは、

お経の中では「習い性になる」と

出てきますが、

もうそれが自然と習慣というか

習性になるまで身に付いてこそ

本当の力というものでしょう。

風習ということが行儀になり、

されが作法という、

作法が倫理になって初めて

真の力になるのではないかと

思います。

 

力という概念も

暴力のようなパワーもあれば

その力がハラスメントにも

なったりもしますが、

本来自分の中に潜んでいて

それが自分を超えるような

そして自分を見直してくる

そういう力もあるのです。

しかし、あるのですけど

そのままではそれこそ力を出せない

そこには努力が肝心要になってくる

ということがあるようです。

 

 

 

 

 

 

コメント
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