力というと、
権力とか金の力とか
はたまた暴力とかありますが、
経典の中にもよく出てきます。
六波羅蜜という修行、
布施・持戒・忍辱・精進・禅定
そして智慧と言う徳目があり
それに四つ加えて十波羅蜜
ということが言われます。
第七番目が方便波羅蜜
八番目が願波羅蜜
九番目が力波羅蜜
十番目が智波羅蜜というように
九番目に「力波羅蜜」と
力ということがでてきます。
また、大悲力とか方便智力とか
悲の力、智慧の力というように
これは、
強いというようなことではなしに
実践ということではないかと
思うのですが、
実践を通して出てくる力、
実践をくぐって力になってくる
そういう力だと、
力というものは
ただあるものではないでしょう。
寝転んでいて
あるというものではなく、
(普通でいう権威とか権力
というものはそうかもしれませんが)
実践して勝ち取っていくものでしょう。
行によって勝ち取られたもの
「修行方便智力」
というように、修行によって
身につけて行く力です。
ただ与えられ取るものではない、
行によって勝ち取るところに
力というものがあるのです。
今の住職も住職ということを
勝ち取ったのでしょう。
彼なりの修行があって
それは因位の修行という
目に見えない影での修行が
あったのです。
だからこそ、
私としてもいやいや渡すのではなく
満足して渡すことができる
前の住職を満足させて
今の住職という立場を
勝ち取ったのです。
今頑張っている当院の
「宗良君」
見ていると、ひとつひとつ
与えられたことを自分のものにして
自分の立場を勝ち取っている
そのように見えます。
誰でもそうです。
与えられたことをどう料理するかは
自分次第、
そして勝ち取らなければ
それは自分のものにはなりません。
それが修行といえるのでしょう。
修行は修業とも書きます。
修業は花嫁修業とかあるように
学問や芸事などを習うことです。
修行は、
教えを身にたもって修め習い
実践すること
仏教では悟りを求める心を発し
達成するために修行する。
と仏教辞典にはあります。
そしてその修行の長さが
一つの例として、
声聞は三生六十劫とあります。
三度生れ変り、六十劫も修行する。
一劫は四里四方の立方体の石に
百年に一度天女が舞い降り
踊りを踊って、その天女の衣で
石がすり減って、無くなった、のを
一劫というのです。
軽く修行といっても
そんな半端なものではなく、
自分一代の修行なんて
簡単なものではなく、
人類をかけての修行のようなものです。
そんな途方もない修行
自分がしなくても、ではなく、
それでは、
「いつやる、
今でしょう!
誰かがやる、
自分がやる!」
ということなのです。
与えられたことは
失くしてしまいます。
自分で勝ち取ったものは
身に付いて自分の力となる
ということです。