もし私たちが人の話も聞かず、
自分勝手な思いで、
実践してしまったら、
それこそとんでもないことになって
しまうのではないでしょうか?
私たちもよく経験することで、
思い出してみると、
社会人になってみて思うのは
もっと大学のときに
勉強しておけばよかった、と
大学のときは、
高校の時もっとまじめに
勉強に取り組んで置けば
こんな苦労もせずに、と
思うのではないでしょうか。
ということは、
大きな立場から人間を見ると
今いる人間の立場では
人間を理解することはできない
のではないでしょうか。
やはり人間を卒業した人の目で
人間を見ないと
本当の人間は見えてこない、
ということがいえるでしょう。
今は、
英知を尽くして理性という立場から
人間を見て行こうとしています。
同じ人間の立場から人間を見ても
本当の人間は見えてこない。
仏壇をお参りする、
仏さまは偶像ではないのです。
仏さまは私たちの到達点です。
拝むということは
到達点の仏から
私たちを見直している、
私たちから見れば
自分の到達点(あるべき姿)を
拝んでいる、
ということになるのではないでしょうか。
だから、
私たちを超えた存在ということを
知るには
超えた人の話を聞くということしか
ないということです。
そこに「聞」、聞くということの
大切さがあります。
聞くといっても難しく、
お経には事細かに人間の心を
分析しています。
聞くといっても本当に聞いていない
とお経には書いてあります。
一休さんの歌に
「有漏路より無漏路へ帰る一休み
雨降らばふれ、風吹けば吹け」と、
この、有漏とは
漏とはもれる、煩悩が漏れ出てくる
そういう意味で
有漏とは、煩悩がある状態、
反対に「無漏」とは
煩悩がなくなった状態という
ことになります。
人間にはいくら真面目になった
といっても無漏になったわけではなく
やはり煩悩の器、
どんなに修行をしても無漏にはなれず
有漏の身であるということです。
ちょっとお寺にお参りして
なんだかいい話でも聞けば
少しは煩悩も取れて
ちょっとは幸せになるかと?
でも、有漏の心はどこまで行っても
有漏であって無漏にはならない
と書いてあります。
では、聞いても無駄ではないかと??
そう思えてくるのですが、
唯識というお経には人間の心を
細かく分析しています。
人間の有漏の心に
小さくくっ付いている
無漏の種があると、
お経には「依附」(えぶ)という言葉で
表現されています。
人間の心は有漏しかないのですが
そのなかに小さな無漏の種が
潜んでいると、
玄奘法師は
「聞法は有漏だけれども縁になる。
それは、無漏を開く唯一の有漏である」
と言っておられます。
そこは厳密です。
私たちが聞法する、教えを聞く
といっても何も無漏になったわけではなく
所詮有漏なのです。
ところが単なる有漏ではなく
無漏の種を芽生えさせる
唯一の手がかりが「聞く」
ということ、いっておられます。
私たちがしていることは
全部有漏なのですが、
ただ遊びにふっけて
パチンコしたり麻雀したりと
そいうことと
教えを聞く、聞法ということとは
同じ有漏でも有漏が違う
ということです。
聞法だけが唯一無漏を開く
有漏になってくるということです。
人間は無限の可能性を秘めている
といいます。
いろいろありましょうが、
事業を起し社長になる
政治蚊になる、
お金持ちになる
名誉を手にして勲章を頂く
可能性としてはできることです。
しかし、
それでは本当に人間を理解する
もっと言えば自分を理解する
とういことにはならないのです。
人間最終目的は
自分自身を知るということでしょう。
その自分自身を知る可能性として
有漏の聞法ということが
自分の本来の心を切り開いていく
無漏の心にふれる
その可能性として「聞く」ということ
唯一の方法ということです。
悲しいかな、
私たちの心は長年かかって、
撥水コートのような幕が張って
教えを聞いてもそれをはねかえして
しまいます。
それには、聞いて、聞いて
その撥水コートを破っていく
それが一番お修行ということです。
聞・思・修といって
三つの智慧、
ここでは厳密に「慧」(え)といいます。
般若ということも智慧と訳しますが
厳密には「慧」にあたります。
聞慧・思慧・修慧ということで
簡単そうでも
実践していくには自分との闘い
それこそ繰り返しの行
「数数習修」ということが
とても大切なことです。
うろうろ、むろむろ
なんだか … ??
「ウロウロ」した話になりました。
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