本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

初夢

2017-01-07 17:02:25 | 住職の活動日記

不思議な夢を見ました。

初夢ではありませんが、

初夢には「一富士二鷹三茄子」と

縁起の良いものを見るといいとか

いいますが、

私が見たのは死んでいく夢でした。

正月早々縁起でもない!

といわれそうですが…

 

その時思ったのは

「生死」という言葉もあり

「死生」という言葉もあります。

辞書で見ると、

生死(せいし)、生と死

死生(しせい)とも(ししょう)とも

読みます。

生と死を考えるときには

「死生観」ということがあります。

 

仏教では

「生死」と書いて(しょうじ)と

読みます。

人間は生まれて、年老いて

病気してやがて死んでいく、と

そのようにふつうは考えますが、

そうではなく、

生老病死の四つの苦しみ(四苦)も

簡単にはそう見えてしまいます。

老病死はなんとなくわかります。

年老いていくのも嫌ですし、

病気するのも嫌なことです

まして死んでしまうのは尚更

嫌なことです。

 

この四苦の中でわからないのは

生苦ということです。

生れるという苦しみではなく

この生ということは

その裏には死ということが

常につきまとっている。

元気そうに生きているが

いつ死が訪れるかわからない

そういう不安定な生である

ということです。

 

生れてやがて、

死んでいくということではないのです。

 

生と死とは裏表のようなものです。

 

ここ宇治の地というのは

ちょうど京都と奈良の中間地点

藤原氏にとっては

奈良の興福寺は菩提寺です。

京都から奈良へは

いつも通る道中が宇治の地です。

中間ということで言えば

京都と奈良の中間、

この世とあの世の中間

この苦しみの娑婆と浄土の中間

京都から行けば宇治川を渡って

その地の平等院を建立された

ことには大きな意味があるようです。

 

この苦しい世界、娑婆にあって

安楽の浄土を希う(こいねがう)

そこに本当の浄土を建立されたのが

平等院です。

お経に書いてある通りに

浄土の姿をそのまま作られた

まさに自分が浄土にいるように

 

死を前にして

阿弥陀如来に手から紐を垂らして

それを握りしめ

念仏を唱えて

薄れゆく意識の中で

阿弥陀如来にもとへ参る姿を

そのまま体験されたのでしょう。

これで、浄土へ行けるのだと。

 

ふと思うのは

死を前にして朦朧とした意識の中で

何を考えるのだろうか?

ぼけてしまえばそれはそれなりに

幸せなことかもしれません。

聞法して聞いたことが

明らかに蘇ってくれば

それに越したことはありません

また、それだけ聞法をしなければ

いけないのでしょう。

 

夢の中で死んでいく光景は

朦朧と夢かうつつか

現実と思いが重なり

どれがどれかわからなくなり

次第に意識が薄れていくという

というものでした。

 

そう思うと、

藤原氏が平等院を建立された

それは切実なものだったのです。

ある一面からいえば

薄れゆく意識の中で

阿弥陀如来の姿の前で

導かれるように紐を握り

意識が薄れゆくというのは

素晴らしいことではないかと。

 

どこを切っても仏法が出てくる

そうなればしめたものです。

しかし、座禅でもして瞑想すると

とんでもないことを思い出します。

雑念ばかりがでてきます。

寝ても覚めても仏法が出てくる

そのようには程遠いようです。

 

薄れゆく意識の中で

何が出てくるのだろうか

空恐ろしい気もしますが、

一言でも

聞いた教えの言葉が出てくれば

有り難いと思うのです。

そのためにも、

日々聞法を重ねる

以外はないようです。

 

なんとも取り留めのない

初夢でしたが

まあ、生と死ということを

考える縁でもありました。

 

 

 

 

 

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