本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

歓喜と不動

2021-01-05 20:30:44 | 十地経

物事何につけても歓喜がなければ

始まりません

歓喜があってこそ始まるのです。

仏教では歓喜(かんぎ)と読み

普通には歓喜(かんき)といいます

 

暮れになると

ベートーベンの第九が

演奏されますが

その中に「歓喜の歌」という

のがあります

Freude フロイデ・喜び

というところが印象的です。

 

この歓喜という言葉も

「歓」というのは身のよろこびで

「喜」というのは心のよろこびと

区別しています。

心がうきうきするという

喜びもありますが

身の置き所がないほどのよろこび

というものもあります

告白した時など

身体じゅうからよろこびが

あふれ出ています。

 

講義では

「歓喜は初々しいでしょう

初めて立ち上がったんだから

だから歓喜というのはいかにも

初めを表すのにふさわしい

言葉ですね。

 

それから第八地というものが

出てくるでしょう。

これは歓喜地と並んで不動地

というのは非常に大きな、重要な

大きな位置をもっています。

不動地というのは

つまり行なんです。

生きるといっても

ただ生物的生命じゃなしに

行ずることが生きること

なんです。

実践です。

行というものが

非常に大事なんです。

行という言葉は面倒な言葉です

普通は行業といって熟語に

なっていますが、

業の方は行為です。

行の方は実践です。

 

我々が生きとる

というようなことも

それは「ある」という意味は

存在というでしょう。

存在というけど、あの、

実践的な存在は行でしょう。

 

この、『十地経』というものは

菩薩地を説いたものです

なぜ菩薩ということが大事かと

いうとですね、

『十地経』という経典が何を、

我々に関心を呼ぶかというと

菩薩ということなんです。

菩薩というのは

人間像なんです。

人間、人間というけどもですね

人間に関係しないものは

一つもないですけど、

けど、仏教でつくり出す人間

というものは

どういう人間なんか

ということが大事でしょう。

 

これは人間主義的な人間じゃ

ないんです。

人間は人間主義的には

考えられんものだ。

人間では、人間の考えでは

つかめないようなものを

人間はもっとるんです。

それは人間の秘密でしょうね。

人間は人間という意識では

つかめないようなものを

もっとる。」

 

ここが不思議なところで

何でも人間の考えで

解決できると思っていることが

実は

人間の考えでは解決できない

それは私たち人間は

意識しないかもしれませんが

自分では分からないところに

自分を超えたものを

持っているのです。

自分の中に自分を超えたもの

そういうものを持っている。

 

自分で自分が何となく

納得できない

自分が自分で自分に頷けない

そういうことがあると思います。

そういうものを求めていく所に

十地という歩みがあると

思うのです。

 

その中でも初歓喜地と第八不動地

ここが一つのキーワードというか

鍵になる地なのでしょう。

 

自分の中にあって

自分が気がつかない存在

そういうものを菩薩と表現し

それが仏教の人間像と

いうことです。

 

18歳の頃から

『十地経』の講義を聞いて

分からないなりに何か

心に感じるものがったのでしょう

何かしら感動があって

着かず離れず今まで

聞き続けることができた

ということも不思議な気がします

聞いて読んで書いては

忘れ

また、書いては忘れ

その繰り返しですが

反面、忘れるからまた

新たな感動があるという

ことなのかもしれません。

 

「聞法とは

自己を吟味することであって、

法が聞こえたことは

何かが分かったのではなく、

分かったと思っていたことが

思い違いであったことに

気付くことである。」

 

ということですから、

忘れては繰り返し

新たな感動を呼び起こし

ということのようです。

 

 

 

 

 

 

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