本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

第七地は媒介点

2024-07-11 18:13:46 | 十地経

この安田先生の

『十地経講義』はほぼ

第七地ということで語られ

ています。

初歓喜地と七地と八地が

一番面白いとも

仰っておられました。

 

やはりよく読んでいくと

七地というところは

染浄世界といわれるように

染という濁った世界、

煩悩の世界と

淨という清らかな世界が

入り混じっている世界です

そこが面白いところです。

 

「染浄というのはやはり

道を行じているから浄と

いうんですけど、

まあ凡夫でもあります。

何ぼ宗教心を起こしても。

だけどその煩悩に埋没して

いるわけじゃないんです。

世間心じゃない、

世間の衆生じゃない。

染行にあらずですから。

 

『如分に平等の道を

行ず』ですから。

如全部に行じているのは

これは如来ですから、

分において行ずるんだ、

如をね。」

 

唯識の始めの言葉に

『満分清浄者』

という一文があります。

満に分に清浄なるものへ

稽首するという、

ということですが、

満というのは、

すべて満たされている

ということで、

仏(如来)を表しています

私たち、というか

菩薩はその一部分を表す

ので、分というのです。

 

講義の中で

「分において行ずる」

というのは

菩薩という立場で行じて

いるということです。

 

「『彼の菩薩、この地中に

おいて力分に随って功用道

を捨てる』と。

まあ功用行を満足したと

いう意味でしょう。」

 

功用(くゆう)といって

簡単には努力ということ

になります。

無功用(むくゆう)という

ことがよく出てきます。

努力を必要としない世界

ということです。

 

「それから

『第八地中に自然に報行を

 得る』と。

第八地に行くというと

さっきいった努力、

力というものすらないんだ

という、自然報行ね。

報行を得ると。

報行というのは報いです。

果報という意味です。

もうすべて道が果報として

行ぜられる。

 

やはりどんな勝れた名人

とか天才というような人

でもね、

個人というものの臭みが

ある間はそれを脱せれん

ですね。

それでそういうことを自覚

していてですね、

人をなるべく光らそうと、

本当に駄目な人間は増々

自分を磨いて光らそうと

するんですけど、

本当の天分のある人は

なるべく光らんように

しようとする。

 

何か下手なように、

もっと話が上手にできる

のにかかわらずですね、

わざと下手なような話を

するというようなね。

ああいうような、つや消し

をやるんです。

 

『仏子よ、菩薩第七地に

住して多くの貪欲等の諸々

の煩悩衆を過ぐるは、

未だ報地に至らざるが

故に』と。

やっぱりその七地はまだ

報地に至ったというわ

けじゃないですね。

 

煩悩に汚れているわけでは

ないが、まだ要求がある。

菩提を得たい。

菩提に対して要求がある。

要求があるから報行という

わけにはいかん。

要求に生きとるから。

 

とにかくこの経文が

何か混乱しているような

印象を受けられたかも

知れませんけども、

七地というのは媒介点

みたいなところで、

煩悩者ともいえんし、

無煩悩者ともいえん、

 

であってやっぱり染浄と、

これは報行の世界、

努力を全く超える世界。

そうかといって全然

何ですね、

染ばかりというわけには

いかない。

何かそこに

染と浄とが相交わっている

というようなですね、

ところが七地にあるわけ

ですね。」

 

本当にじっくり読まないと

分からなくなります。

何回もペンを置き

書くのが止まってしまい

戻っては読みなおしと

進まなかったところでです

まあ面倒なような文ですが

こういう

分かりにくい文に接する

ということも大事なように

思います。

 

 

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 天人五衰(てんにんごすい) | トップ |   
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

十地経」カテゴリの最新記事