本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

身につくー努力が生活そのものとなる

2024-06-06 16:14:14 | 十地経

努力、

「力」という字は仏教では

とても重要な意味をもって

います。

この場合は「リキ」と発音

します。

自力・他力、とか

日々のお経の中では

「三力偈」(さんりきげ)

という文句があります。

 

以我功徳力イガクドクリキ

如来加持力ニョライカジリキ

及以法界力ギュウイホウカイリキ

 

自分と仏と一切の縁ある人

そういうすべてのカらが

集まりものごとは成就する

というような意味です。

文字を見れば何となく

分かるようないい言葉です

 

それから『観音経』という

中には「念彼観音力」

(ねんぴかんのんりき)

というフレーズが

繰り返し出てきます。

 

それから神通力、威神力

など、力という字は

よく出てくる言葉です。

十地経の中では

 

「上地というものに

勝れとるという意味を表す

のはこの力です。

この一段の経文で、

この力という字が非常に

大事なんです。

 

初地からずっとやってきた

行がですね、

第七地に満足したと、

満足したその力をもって、

その智慧の力をもって、

『第八地菩薩地よりないし

 十地に至るんだと』

これが上地です、

八地から十地までです。

 

初地から積み上げてきた

その七地の力が、

その力によって十地までに

至ることができるんだと。

それで上地に対しても増上

勝れとると。

 

上地に対して勝れている

ということは、

前を受けて後を展開する、

そこに力、七地があるわけ

です。」

 

仏教の「力」というのは

パワーというような力

ではなく、

能力というような意味を

もった言葉です。

だからあくまでも

自分の修養の力という

ことになります。

 

五力(ごりき)という

ことがあります。

信力(しんりき)

勤力(ごんりき)

念力(ねんりき)

定力(じょうりき)

慧力(えりき)の

五つです。

信力は信仰の力、

勤力は努力の力、

念力は憶念不忘の力、

定力は禅定の力、

慧力は智慧の力で、

ここでいう「力」とは

悪を破るのに力がある

力リキというのです。

そしてその力も

外から持ってきたものでは

なく、自分の精進努力の

力なのでしょう。

 

そこで、講義では

努力が満足したということ

を自然ジネンという、

努力が自然に行えるという

そういうことを

純熟ジュンジュクとい言葉で

表現します。

純熟、何かいい言葉です

熟するというと、

成熟、豊熟、などという

言葉もありますが

習熟という言葉もあり

純粋に熟するという純熟

熟し方もこうでなくては

 

「自然ジネンはですね、

純熟したというような意味

ですね、

もう修練を積んでですね、

もう念念に一刹那も道を

離れたことがないと。

 

寝ても覚めても

道とともに歩んでいると。

こういうのが、つまり、

これから努力してやるぞ

というもんじゃない。

 

努力というけども

それはもう生活そのもの

なんです。

それも一つの自然ジネンと

いえんこともないと

思うんですけど、

それは純熟したという

ような意味ですね。

 

努力しても

努力の意識がないという

努力しても、…

どういったらいいでしょう

努力するという意識という

のもやっぱり、修練の結果

としてそういうものが

ないんだ。

 

よく身についた、

ということが、世間でも

学問でも何でも

身についたというような。

考えとる間は身につかんで

心にはあるけども。

心にあるような努力じゃ

これはすんどるでしょう。

そうじゃない、

もう身についとるんです、

努力が。」

 

何でもそうですが

身につくという

取って付けたような振舞

でもなく、

それこそ自然に行える

何事もそこまでやるという

何か、七地ということの

意味があるようです。

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 御堂は照る照る、御門は曇る... | トップ | 力ある人は非常に静か »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

十地経」カテゴリの最新記事