本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

無煩悩者・有煩悩者

2024-07-04 18:22:24 | 十地経

無煩悩者・有煩悩者という

いい方もあるのですね。

私たちは二元論の世界で

考え方が侵されていて、

有るか、無いか、

在れば形あるものとして

有るし、

なければ形が無い、

そういうように

有るか・無いか、

有れば見えるし、

見えなければ無い、

見えないけれども有る

そういう世界を感じとる

豊かな心をなくした

ともいえます。

 

十地経の中に

『菩薩は、この第七菩薩地

において、多くの貪欲等の

煩悩衆を過ぐる。

この菩薩がこの菩薩遠行地

中に住するならば有煩悩者

とは名づけない』

という言葉があります。

 

このことを講義では

「七地の菩薩は有煩悩者

というわけにはいかない。

けどそれなら

無煩悩者かというと、

無煩悩者というわけにも

いかんと。

 

煩悩をもった人間とも

衆生ともいえんし、

煩悩がまったくない衆生と

いうわけにはいかないと。

何をもってかというと、

一切の煩悩がそこで行じて

おらんのやから、

それで有煩悩者と名づけ

ないと。

 

しかしながら

如来の智慧を貪求しとると

何か求めとるというんです

『如来の智慧を貪求して

未だ満足しとらんが故に、

無煩悩者ともいえん』

だろうと。

 

だからこうしてみる

というと、

七地の煩悩は、

まさしくその染汚ゼンマ

ともいえんし、

純粋に清浄ともいえん。

やっぱり染汚清浄という

ところに、

七地があるんだと。

染汚清浄というところに

菩薩七地というものが

あるんでしょう。」

 

ここに出てくる

「貪求」という言葉も

面白いですね。

貪トン、という字は煩悩の

ことです。

貪りという煩悩です。

それがいい言葉として

使われている。

むさぼりもとめる

ということです。

なまやさしくないですね。

 

「信心があるということと

煩悩があるということと、

何も矛盾せんのです。

 

初地に入った菩薩が出世間

心を起こしたでしょう。

世間を超えたんだ。

それなら

煩悩はなくなったか。

それなら仏ですと、

そういうわけじゃない。

 

煩悩があるということと

信心を得るということは

何も矛盾せんのです。

信心は煩悩というものを

嫌いやせん。

まあ好きじゃないですけど

脅かされんです。

 

悪も恐れんです、信心は。

悪を恐れるようなのは、

宗教心じゃない。

だけどやっぱり悪はある。

完全に悪がなくなった

としたら仏です。

 

宗教心を起こしても

まだ我々は凡夫です。

凡夫ということと、

信心を得たということは

何も矛盾せんと思う。」

 

ここらが微妙で難しい

というか

二元論の頭では理解が

難しいところです。

じっくり読まないと頭に

入ってこないところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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