本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

『 親分 』  完成形  ?

2010-10-09 14:19:21 | 住職の活動日記
 先日、『 十地経講義 』 のことを書いていたのですが、

この講義は昭和46年3月28日から始まったのです。

弘法大師の 『 十住心論 』 にちなんで、その元になったであろう

華厳経の中にある 「 十地経 」 を選ばれたのです。

 この講義は三浦先生を初め、洛南高校の先生方を中心に話されたので、

宗派を越えて、というより全宗教的立場から講義されました。

 この講義の具体的実践が、今の 『 洛南高校 』 を

作り上げていったと思います。


 その中で、先日 『 親分 』 ということを書いたのです。

読み進めるうち、言葉足らずの部分がありましたので … 

『 十地 』 というのは 「 十 」 という修行の段階です。

初歓喜地、第一番目の 「 喜び 」 というところから修行が始まるのです。

第一地から三地までは世間、を表し、

第四地から六地は出世間を表しているのです。

そこからが本当の修行に入っていきまして、八地からは出出世間で

修行するということも越えてしまうというのです。

 その修行の先にあるものが 『 マイスター 』 【 親分 】

ということだそうです。

 かえって世間をずうっと超えていったら最後は世間にもどってくる。

だから、修行というのも段階的に上っていくものではなく、

ある意味では一つの円環を描いているようなものです。

 修行の到達点は 「 悟りすます 」 のではなく、

そこらの普通のおっさんやおばさんと話ができるのが 『 マイスター 』

【 親分 】 ということです。

誰とでも話ができる、それが 【 親分 】 、そしてそれが

本来の人間のあり方なのでしょう。

 そういう人ほど 目だ立たなくなる

それが、本当の 『 マイスター 』 【 親分 】 ということです。


 錬磨 ということを書きましたが

磨いている間はまだ途中なんです。

なんか、自分を光らせようと思っとるんです。


『 本当に力のある人は自己主張をしない 』


という、本当の意味はそこらにあるのです  が  …  ?


だから、修行の先にある、ただの人、普通の人間になるということが

容易なことではないのです。


 しかし、修行もなしに、磨くことも知らず、

普通の人というのは、居直り強盗のようなものですけど、

そこには、 『 修行 』、ということが大事です。


 『 大沢親分 』 もカリスマ性を持ちつつ、誰とでも気さくに話せる

おっさんになられたのでしょう。

 そこにこそ、 『 大沢親分 』 の真骨頂があるのではないでしょうか。





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