本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

雑夾性

2018-08-16 21:04:31 | 十地経

「雑夾性」ということ

昨日はどうも自分勝手な解釈で

煩悩のカスみたいな

ということを書いていたのですが

気になって、読み進めていましたら

少し詳しく述べておらる

所が見つかりました。

 

結論的には

「分別の固執が雑夾性」

ということです。

「障りに二つあって、

 煩悩障と所知障ということです」

「煩悩の方は、わずらい・なやむ

 というんですから、

 それがつまり障りです。

 我々は欲を起して

 うまいことしとると

 思っているんですけど、

 そうではない、

 欲を起こすことで人間は

 悩むんです。

 苦しめられとるけど

 苦しめられているということを

 思わないのです。

 あたりまえだと思っているかも

 しれませんが、

 愛欲というものがあって、

 これが人間の天から与えられた

 特権だと考えているけど

 愛欲に悩まされているんです。」

 

「金がないから困ると、

 けど、金がなくなっても

 金が困らしとるんじゃなしに

 金が欲しいという心が

 困らしとるわけでしょう。

 金が欲しいという心が

 人間を悩ましとるんで

 金そのものが悩ましとる

 わけじゃない。」

 

ですから

「菩薩道では煩悩よりも

 むしろ所知障を大事に見る。

 だから広い意味の無明なんです

 これを、執というんです

 実は『執』が障りなんです。

 人間が人間の考えに固執する

 という意味です。

 分別の固執です

 今の言葉でいえば主観性

 主観の固執です。

 この主観の固執を破るということが

 菩薩の修養の眼目なんです。」

 

「雑夾性を排除するといっても

 その雑夾性はですね

 貪欲とか瞋恚とか

 そういうことでなく、

 分別の固執が雑夾性なんです」

 

と、こういうことが

次の巻で出てきましたので

私が勝手に感じた

煩悩のカスみたいなということを

訂正しておきます。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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